今日のみ言葉【No.2821】(2022年 5月27日)「嵐を静めるイエス(1)」
ある日のこと、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、一同が船出した。
(ルカ8:22)
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「あらゆる宗教に癒やしの奇跡があるが、あれは優しい言葉をかけられて心理状態が安定し、さらに手を置いて祈るという身体的接触が刺激となってオキシトシンというホルモンが分泌し、痛みが緩和されたということではないか」
と、考える人がいます。
科学的見地から出来事の真相を探る素晴らしい態度です。
しかし、聖書の奇跡は、その仕組みを探るためにあるのではありません。
イエス様の奇跡は、「しるし」であり「サイン」、つまり「標識」なのです。
従って、奇跡それ自体に目を注ぐのではなく、その奇跡が指し示すものに目を向けるのが正しい見方となります。
イエス様が嵐を静められたという奇跡もその見方で読む時に、なぜ奇跡を行われたのかがわかります。
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「ある日のこと、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、『湖の向こう岸へ渡ろう』と言われたので、一同が船出した」
(ルカ8:22)
「ある日」とはマルコ福音書によると、
「さてその日、夕方になると」
(マルコ4:35)
となっていて、この日は3章20節から4章34節に渡る非常に長い一日でした。
イエス様が弟子たちと舟に乗り込み、船出したのは、その長い一日の終りに休息を取るためです。
ところが、せっかくの休みなのに、そこに嵐が襲ってきます。
イエス様が神の子なら、事前に風と湖に向かって
「静まれ、黙れ」
(マルコ4:39)
と言っておき、自分も弟子たちも十分に休みが取れるようにしておけば良さそうなものですが、そうはなさいません。
神の手のひらの上では、「嵐」も「凪(なぎ)」も同じだからです。
私たちはトラブルを避けようとします。
トラブルがないことが平安だと考えるからです。
しかし、父なる神は、神と共にいるなら、トラブルの中に動かぬ平安があることを示そうとされていたのです。
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さて、
「渡って行く間に、イエスは眠ってしまわれた」
(ルカ8:23)
とあります。
一日の激務による疲れと、ペテロを始めとするプロの漁師たちがいる安心の中で、イエス様は本当に熟睡されたのです。
ところが、そこに
「すると突風が湖に吹きおろしてきたので、彼らは水をかぶって危険になった」
(ルカ8:23)
と、プロでもかなわないほどの嵐、すなわち人間の能力ではこなしきれないトラブルがやって来ます。
さあ、弟子たちは、そして誰あろうイエス様はどうされるでしょう?
以下、次回に続きます。
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「なぜこの時に…」と思う時は、神が何かを指し示そうとされている時です。
平安を先取りし、その平安の中で神が与えようとされる賜物を見出して参りましょう。
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