今日のみ言葉【No.314】(2012年 5月24日)
それから、彼はデルベに行き、次にルステラに行った。そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父としており、
(使徒16:1)
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パウロは2回目の伝道旅行に出かけました。
「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」
(使徒15:36)
そして今日の聖句のルステラに行きました。
これはなかなかどうして出来ないことです。
なぜなら、ルステラでパウロは迫害を受け、瀕死の重傷を負った町だったからです。
かつて命の危険を味わい、キリスト教の反対者がまだいるかもしれないその場所に戻ってくることは恐ろしいことに違いありません。
しかしそこで待っていたのは迫害ではなく、忠実な弟子テモテでした。
テモテはこの後、パウロと伝道旅行を共にし、良き働き手、協力者としてパウロを助けていくのです。
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神を信じていても信じていなくても、人生に苦労はつきものです。
しかし神に従う人生には、神が用意して下さっている祝福があります。
神無き人生を歩む人は、
「この困難を打ち破らなければ光は見えない」
と考えます。
一方、神を信じる生き方では、
「困難のただ中で神は光を照らして下さり、この向こう側に既に祝福を用意して下さっている」
と、光を予想して苦労の中を歩むことが出来るのです。
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私は初めての場所は苦手です。どうも生まれながらの性質のようです。
その初めての場所でTCSの講義をしに行く朝、胸の痛みやら諸症状が現れました。
「ストレスを感じているからだな。でも祝福が待っているんだ。」
と自分に言い聞かせつつ、クラスの会場に到着しました。
するとその中に、教会学校時代はおてんば娘で、今やアラフォー主婦になった受講生がおられました。
彼女は、
「昔は反抗ばかりして、先生にはご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした。」
としきりに謝り、恐縮しているというお顔でした。
ところが、当の私にはその記憶がありません。
そう言われればそうかもしれないが、迷惑だったとか苦労したとかという記憶は全くありませんでした。
代わりに思い出せたのは、明るい笑顔と元気な姿、そして結婚後の様々なご苦労を伝え聞いたことだけでした。
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私はこのことを通して祝福を得ました。
「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」
(第1ヨハネ1:7)
という御言葉は知っていましたが、神様が私に全く罪を認めないということはこういうことなのだな、と実感できたからです。
私が彼女の昔の反抗を全く覚えておらず、むしろ、「ご苦労されたんだな」といたわりの目で見ることが出来たように、神様も同じだということが分かったのです。
神様は、イエス・キリストの十字架の死が自分の罪の身代わりであったと信じる者全てに、罪の赦しを与えて下さいました。
ですから、キリストを信じる者全ての罪はお忘れになり、ただただ、
「苦労してきたんだね。よくやっているね。」
という愛の目で見ていて下さっています。
だから安心して神様の胸の中に飛び込んでいけるのです。
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困難の向こう側にある祝福を見ながら、今日も一歩ずつ歩んで参りましょう。
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