今日のみ言葉(2012年 1月28日)【No.230】
「そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。」
(マタイ21:14)
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今日の聖句の直前に、イエス様の宮きよめの出来事がありました。
イエス様が珍しくも怒りに燃えて、両替人や鳩を売る者の店を蹴散らし、「宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し」たのです。
なぜそんな乱暴なことをしたのでしょうか?
神殿の庭が商売に利用されていたからでした。
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その当時のイスラエルでは、神殿にお詣りに来る人は動物を犠牲として捧げなければなりませんでした。現代の日本で言えばお賽銭がそれに当たります。
遠い所から来る人が動物を連れてくる場合がありますが、神様への捧げものが傷物であってはいけないので、必ず祭司による検査を通らなければなりません。
全きいけにえでなければ不適当とされ、捧げることが出来ません。
それで、神殿の庭にはあらかじめ犠牲の動物が販売用として準備されていたのです。
合理的で親切なように思えますが、現実には神殿の祭司と業者側との間に癒着や利権というものがあったようです。
連れてくる犠牲の動物は全部不適当とされ、
「あちらから買ってきなさい」
と、参詣に来た人々は業者から割高な動物を買わされ、その利益の一部がリベートとして神殿側に回っていたわけです。
イエス様が怒られるのも無理はありません。
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その宮清めがなされた後、近寄ってきたのが、「盲人や足なえ」たちでした。
これは非常に象徴的なことです。
宮が商売に利用され、不正な金儲けがはびこる所では、強い人たちが生き残ります。
弱い人は入っていけません。逆にはじき出されますし、あらかじめそれが想像できるので、弱く貧しい者は近寄ることさえしません。
しかし、弱い人が近寄ってこれるのがイエス様の宮であり、教会なのです。
教会がどのくらい命があるかのバロメーターは、この「盲人や足なえ」という語に代表される体の不自由な人や、病気の人が安心して来ていられるかどうかです。
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榎本保郎牧師の「新約聖書一日一章」の中に、下記のような話がありますので、ご紹介いたします。
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ローマのラウレン・チュースという執事が、ローマ政府から教会の宝を渡せと迫られた時、彼は、「教会の宝はこれである」と言って、貧しい人や、いろいろのとげを持つ不自由な人たちを連れてきた。
役人は怒って彼を殺した。
教会の宝とするものはこれらの人々であり、これらの人たちが集まってくる教会が、イエスが生きておられる教会である。
そういう人たちが来なくなったら、それはすでにイエスのいない教会である。
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イエス様、教会には普段の生活をちゃんとしていないと行けないと思っていましたが、そうではないのですね。弱いからこそ行けるのですね。感謝します。アーメン。
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イエス様のもとには誰でも安心して行くことが出来ます。
今日も平安をいただいて歩んで参りましょう。
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