今日のみ言葉【No.2451】(2021年 1月21日)「キリスト教イロハ(126)『たとえ話』」
イエスは譬で多くの事を教えられた
(マルコ4:2)
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大佛次郎(おさらぎじろう)氏の『帰郷』という作品の中に、
「あの町ですよ。昼寝しているように、いつも静かな」
という表現があります。
町が昼寝をするはずはないのですが、そのたとえ方は読む者に、昼下がりのような、なんとも言えない静寂感を感じさせます。
たとえ一つで、その作家の意図する世界へグッと引き込まれます。
イエス様も人々に教える際、たとえ話をよく使われました。
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「たとえ」とはギリシャ語で「パラボレー」と言い、これは「そばに投げる(パラボレイン)」という言葉から来ています。
つまり、たとえ話とは、ひとつのものに他のものを並べて比較する説明方法なのです。
ひとつのものとは、人間の目には見えない神の国の真理です。
これをストレートに説いても人間の頭では理解できないので、他のもの、すなわち人間の地上世界の身近な話を「そばに投げる」わけです。
すると、その話はよくわかりますから、印象に残ります。
ただし、神を求めようとしない人にとっては、
「そういうこともあるなあ」
という程度の感触だけで、深い意味を問うことはせず、やがて忘れ去られます。
一方、真剣に神の国や天的真理を求めようとする人は、そのたとえ話が本来指摘している本質的部分を探ろうとし、そこに到達するのです。
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このことをイエス様は
「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる」
(マルコ4:11)
と言われました。
その後に続く
「それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである」
(マルコ4:12)
とは大変不親切な言葉のように思えますが、これは神を第一原因とする聖書特有の表現です。
神は神を求めない人をわざと悔い改めさせないようにさせる意地悪な御方ではなく、どんな選択でもできるように自由を与えている御方です。
その時、神の真理を悟ろうとしない人は、たとえ神のみわざを見ても、それが神からのものだと認める選択をしないようにその自由を使います。
また、「神が働いているのではないか」という考えを持たない選択をしているので、話を聞いてもその方向に向こうとはしません。
従って、その人には聖書の言う悔い改めは起こらず、結果的に罪の赦しを選ばない生き方をすることになるというわけです。
聖書では神を第一原因としますから、
「人が悔い改めなかったのは、神が彼の心を自由にさせていたからだ」
と考えます。
従って、
「悔い改めてゆるされることがないため」
という表現になるのです。
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神に心を開いて、たとえ話の中にある神の真理を求めましょう。
今はわからなくとも、人生経験を積むことにより納得できる時が来たり、牧師の説教や聖書解説を通して理解できる時が来るでしょう。
「聞く耳のある者は聞くがよい」
(マルコ4:9)
と言われたイエス様の言葉に真剣に耳を傾け、神の真理が解き明かされる時が来ると信じて、あなたなりの一歩を進めて参りましょう。
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