今日のみ言葉【No.1347】(2016年 8月 5日) 022 「会堂司ヤイロ」(1)

するとそこに、ヤイロという名の人がきた。この人は会堂司であった。イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った。
(ルカ8:41)

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インドネシアの皇太子が米沢に来た時のことです。

長旅の疲れと、全く環境が違う異国の地だからなのでしょう、お供の人たちからはいかにも「疲れている」という様子が見受けられます。

ところが、同じスケジュールをこなしているにもかかわらず、皇太子だけは背筋をピンと伸ばしてシャキッとしています。

国を代表する者としてのプライドが彼を支えていたのです。

老年になってからは、このプライドを持っている人と持っていない人との差は歴然となることを私は実際にこの目で見ています。

プライドは強い力を持っているので上手に使いこなせればそれに越したことはないのですが、便利なので安易に頼り過ぎると、今度は「プライドが邪魔をする」事態になります。

会堂司ヤイロはギリギリの場面で自分のプライドをどうするか迫られました。

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「会堂司」は「会堂管理者」(新改訳)、「会堂長」(新共同訳)とも訳されています。

ヤイロの職務は、会堂の維持管理をするだけでなく、会堂での礼拝の祈りや聖書朗読や説教をする人を選んだりすることでした。

また、礼拝の秩序を保つ責任を果すために異端者を追放することもありました。

つまり、彼は地域で重要な役目を担い、人々の尊敬を集める人物だったのです。

ヤイロにはこのような公の面と、一人の父親という私的な面もありました。

彼の苦しみは、今まさに自分の娘が死にそうな状態にあるということでした。

「彼に十二歳ばかりになるひとり娘があったが、死にかけていた。」
(ルカ8:42)

そのゆえに、プライドをかなぐり捨てて、ヤイロはイエス様の前に身を投げ出し、ひれ伏したのです。

「イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った。」
(ルカ8:41)

人は追い込まれてどうしようもなくなった時、神を見上げます。

そこで自分を捨て、プライドを捨て、一心に神に向かうようにと、神様の大いなるご計画があるのです。

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私が洗礼を受けて1年目、教会学校の教師となることを依頼されました。

二人の超大物の男の子がいたからです。

日曜日の子供礼拝が終わり、各学年に分かれての分級の時間は、聖書を学ぶ時間などというものではありません。

逃げるその子らを教室に集めるために、教会中を追いかけっこする時間でした。

私が準備した話は全部無駄に終わります。

ですから、前日の土曜日の夜、私の準備は、教案を読むことが3分。後は祈ることだけでした。

しかし、祈っても祈っても、彼らが言うことを聞いてくれることはついぞありませんでした。

今振り返ってみると、二人が小学校を卒業するまでの期間は、私のプライドが潰され、いと小さき者に仕える訓練期間だったのです。

やがて私の祈りは神様によって思いを遥かに越えた形で聞かれます。

一人は荒れた青春時代を過ごした後、教会に帰って来て、今や次代を担うメンバーとなっています。

もう一人は、20歳の時に結核で亡くなりました。

私は入院中から彼の最後まで訪問することとなりました。

彼が小学生だったあの時、彼に御言葉を語ることができ、イエス様の救いを伝えることができたということが、その時の私の心の慰めとなりました。

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神様の大いなるご計画の中で、ギリギリの立場に立たされる時があります。

素直に神の前にひれ伏し、祈る時間を持たせていただきましょう。

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