今日のみ言葉【No.1096】(2015年 7月27日)

よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。
(イザヤ65:2)

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お正月によく聞く「春の海」の演奏の動画です。

「春の海ひねもすのたりのたりかな」(与謝蕪村)

の句で表される穏やかな春の海の様子が感じられます。

「ひねもす」とは「終日、一日中」という意味ですが、その言葉通り、一日中、のたりのたりと波打つ春の海ののどけさが伝わってきます。

しかし今日の聖句の「ひねもす」は、そんなのんびりとして気分とは異なり、神が必死に一瞬々々、一日中イスラエルの民に手を伸ばし、招いていた様子が描かれています。

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イザヤ書第65章は、その神の招きの手に応じ、自分の罪を悔い改め、神の赦しを信じて飛び込んだ者たちへの祝福の約束が記されています。

と同時に、その神の招きの手を拒否し、相変わらず今までの生活を続ける方を選んだ者たちへの厳しい裁きの両方が記されています。

人は神にあって、2つに分かれるのです。

幼な子イエスが両親に連れられ、エルサレムに上った時、老人シメオンによって母マリヤはこう告げられました。

「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。」
(ルカ2:34)

イエス・キリストを前にし、彼をどう考えるかによって、その人の人生は倒れもし、立ち上がりもするのです。

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神の招きの手に応じた人生で象徴的なことは、

「アコルの谷は牛の群れの伏す所となって、わたしを尋ね求めたわが民のものとなる。」
(イザヤ65:10)

とあるように、悲惨な悩みの思い出の場所が、「牛の群れの伏す」ほどの豊かなものに変えられるということです。

アコルの谷とは、ヨシュアの時代に罪を犯したアカン一族を滅ぼさねばならなかった谷のことです。

(参照:https://mikotoba.org/?p=858

私たちの人生にとって、思い出したくもない失敗や罪の出来事が、神の招きの手に応じた後は、神が御自身の豊かさを持って祝福に変えて下さるというのです。

これが悔い改めた者の人生で一番顕著なことです。

弱さが強さとして用いられ、遠回りをして人より遅れを取ったはずが、逆にそのことによって豊かな収穫を得る人生へと導かれるのです。

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私たちの教会にはカルト宗教から救出された方が何人もいらっしゃいます。

無休で働いて健康を害された方、詐欺まがいの霊感商法に携わった方…。

その人にとっては、人生の中の「黒歴史」とも言うべきものです。

「無かったことにしてしまいたい…」

というのが本音かもしれません。

その方々に共通していることは、同じように人生の遠回りをしてきた人と接する時、決して責めたり励ましたり直そうとアドバイスしようとしないことです。

「ああ、そうですか」

と、文字にすると無機質な感じがしますが、実際は実にジワッと受け止められます。

そして、

「それは無理もない」

「仕方がない。その時はそれが全てだったのだから。」

と、次々と赦しの言葉が差し出されます。

なぜでしょう?

そうです、彼ら自身がゆるされ、赦しの体験をしているからです。

そしてその黒歴史の体験があったがゆえに、同じように悩む方々へ

「癒しの器」

としての豊かな働きをなしているのです。

神の赦しの中にあって、悩みの「アコルの谷」は、慰めと癒しの泉が湧く谷へと変えらていきます。

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神はあなたが帰って来るのを今日も一日中待っておられます。

神の招きの手に、自分の手を差し出す一日として参りましょう。

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