今日のみ言葉【No.619】(2013年 7月27日)
どうしてあなたは手を伸べて主の油を注がれた者を殺すことを恐れなかったのですか
(サムエル記下1:14)
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サウル王の死を報告した者は、ダビデに取り入ろうとしていました。
彼の考えは、あれくらいダビデを執拗に追い回したサウルが死んだのだから、その知らせを聞いたらダビデは大いに喜ぶだろうというものだったのでしょう。
自分を悩ます敵がいなくなり、危険が無くなったという知らせですから、当然のことだと思います。
しかしダビデの反応は違っていました。
「どうしてあなたは手を伸べて主の油を注がれた者を殺すことを恐れなかったのですか」
とその若者に詰め寄り、彼を殺してしまいました。
ダビデにとって、
「主に油注がれ、神に選ばれたこと」
はそれほどまでに重要なことだったのです。
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これを新約の時代にあてはめると、
「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。」
(第1コリント8:11)
ということでしょう。
弱い人のためにも、自分を悩ます者のためにも、キリストは十字架で死なれたのです。
神の子の命と引き替えにするほど、その人を大事な存在として神は見られているのです。
私たちは、あまりにも悩まされ、相手を迷惑な存在だと思うと、ふと、
「いなくなればいいのに…」
「消えてくれればどんなに楽か…」
と思い、心の中でその人を抹殺していることすら知らないで生きています。
しかし神の視点からその人を見ると、イエス・キリストの命を支払ってでも買い戻したい大事な存在なのです。
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「私を悩ますあの人が、神様にとっては大事な存在か…」
と、頭では分かりますが、嫌な人であればあるほど、その事実は考えたくもないことです。
多くの人はこのメッセージを聞いても、
「ふ〜ん」
と言ったきり、次の瞬間には忘れています。
それくらい拒絶したいことなのでしょう。
まさにキリスト教はここから始まります。
相手を心の中で殺しているこの私が何の裁きも受けずにキリストによって救われている。
この恵みに気づき、浸り続けなければなりません。
たとえて言うなら、キリスト温泉に入り、暖まることです。
温泉場に行き、湯につかって暖まり、毎日新鮮な海の幸山の幸のごちそうを食べ、また湯につかって暖まり…、という生活を飽くことなく繰り返すのです。
やがて、私たちの内側が神によって変えられていることを知るでしょう。
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神の恵みに浸る一日として参りましょう。
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