今日のみ言葉【No.606】(2013年 7月12日)
主から来る悪霊がサウルに臨んだので
(サムエル記上19:9)
——————
聖書にはしばしば
「はて?」
と思うような表現が出てきます。
私がはじめて聖書を読んだとき、
「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。
(ヨハネ12:40)
というところが分かりませんでした。
「神が人の心をかたくなにした?悔い改めていやされることがないため?」
神が人間の心を自由自在に操るのなら、悪いことをさせるのも神なのだろうか、と不審に思いました。
しかしこれは聖書特有の表現です。
聖書では何事も「神が第一原因」と考えるからです。
-*-*-*-*-*-*-
たとえば、ある人がわがまま放題、勝手放題の生活をして健康を失ったとします。
一般にはこれを「自業自得」と表現します。
しかし聖書的な考え方では、神がその人を束縛もコントロールもせず、一切介入なさらなかったからそうなったのだ、と考えるのです。
つまり、神が人間の自由意志を尊重し、その人の選択に任せたことに病気の原因がある、と持って行くのです。
その結果、
「神は彼から健康を奪われた」
というような表現をするのです。
-*-*-*-*-*-*-
今日の聖句の
「主から来る悪霊」
という表現を見ると、神様が悪霊を使って人間を操作し、思い通りに人間が動かされるような印象を持つかもしれません。
このときのサウルは、感情的にはダビデへの嫉妬の念に燃え、彼を殺そうとしますが、息子ヨナタンの説得に耳を傾け、反省し、理性的行動を取る態度も見せています。
しかしダビデが手柄を立て、評判が大いにあがると、サウルはまた彼を殺そうとします。
彼の心が非常に不安定だったのは、神に立ち返らなかったからです。
自分の思いで生き続けたのです。
それ故、悪霊を招くような心の状態になり、精神病的症状を見せるようになります。
繰り返しますが、聖書では神を第一原因とするので、
「主から来る悪霊がサウルに臨んだ」
という表現になるのです。
-*-*-*-*-*-*-
神は人間を束縛するどころか、最後の最後まで人間の自由を尊重なさいます。
こちらから
「神様どうぞ私の心に入ってください。」
と申し出なければ、無理に押し入ろうとするお方ではありません。
「神様、私の人生は滅茶苦茶です。あなたにゆだね、お任せします。」
と言わない限り、私たちの人生に介入も操作もしようとはなさいません。
しかし、私たちを愛し、最高の人生を与えようとしておられる方ですから、その方に人生をゆだねる決心をしたとき、願う以上の祝福の人生が与えられるのです。
自分で悪霊を招くのか、神の祝福を受け入れるのか、それは私たちの選択です。
神様はあなたの選択の自由を尊重され、今日も静かに見守っておられます。
-*-*-*-*-*-*-
神に立ち返り、祝福の日差しをいっぱいに浴びる一日として参りましょう。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません