今日のみ言葉【No.605】(2013年 7月11日)

主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた。
(サムエル記上18:12)

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サウルは神に選ばれていたのに、神の命令に背きました。

それゆえ主はサウルを離れ、ダビデを選ばれました。

サウル王の今までの力は神が共におられ、神の霊が激しく臨んだからでした。

しかし今やそれは失せ、悪霊が彼を悩ませるようになりました。

そしてダビデの方に神の力が現れるのを見、サウルはあわてふためき、彼を恐れたのです。

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かなり俗的な例えになりますが、このように考えるとわかりやすいかもしれません。

「自分を捨てた恋人(神)に未練タラタラの男(サウル)は、かつての恋人に新たな相手(ダビデ)が現れたのを知って、驚き恐れ、嫉妬の念に燃え始めた。」

それでサウルは何度もダビデを殺そうとするシーンが続きます。

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サウルが取るべき態度とは何だったのでしょう?

これも俗っぽい言葉になりますが、

「あー、俺がバカだった。いい気になって自分の思い通りのことをやっちまった。よし、ここはスッパリあきらめて、また元に戻って最初からやり直そう。」

というものではないでしょうか。

つまり、現実を受け入れ、自分の原点に戻って新しいスタートを切ることです。

神はそのようなサウルならきっと再び祝福されたことでしょう。

しかし彼は王位にしがみつきました。

自分の力で得たのではなく、神から与えられたはずなのに、その地位、王座を失うまいとしてあがき、周囲を振り回す姿が聖書にしっかりと記録されています。

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他人事ではありません。

自分の姿というものはなかなか客観的に見えるものではないのです。

ですから、聖書という鏡を通して自分自身の姿を見るのです。

「サウルの姿は我が姿ではないか…」

ゾクッとするような感じがしますが、神が私たちに聖書を与えたのは、恐怖を与えるためではなく、正しい道を歩むことが出来るようになるためです。

神の言葉に目をそらさず、生きて参りましょう。

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聖書を通して映し出される自分の姿が見えますように…。