今日のみ言葉【No.542】(2013年 4月11日)

それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となるであろう
(ヨシュア記4:7)

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ヨルダン川を渡り終えた後、神は川から12個の石を持ってきて積み上げなさいと命じられました。

これは後の子孫たちが

「これらの石は、どうしたわけですか」

と問うた時に、

「むかしヨルダンの水が、主の契約の箱の前で、せきとめられたこと、すなわちその箱がヨルダンを渡った時、ヨルダンの水が、せきとめられたこと」
(ヨシュア記4:7)

を伝え、記念として代々覚えていくためでした。

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神が働いて下さった、という「証しの石」を持つことは重要です。

どんな高尚な理論理屈を並べ立てられても、

「しかし私は主によって変えられました。」

「神はあの状況に働いて下さり、今はこうです。」

という「事実」に勝つことはできないからです。

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あなたはその「証しの石」を持っていらっしゃいますか?

証しとは、

「自分はこんなに立派になった」

という自慢話を人に聞かせることではありません。

成功談や成果を上げた話だけが証しとなるなら、証しができる人はごく少数に限られてしまいます。

証しとは、

「神が自分の人生にどのように働いて下さったのか」

という事実を語ることです。

これなら自分がどんなにひどい状況で、何一つ問題は解決されていなくとも、証し者として立つことができます。

その私に神は働いて下さり、このような恵みを与えて下さっている、ということをお話しすればよいからです。

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数年前、こんな証しを聞きました。

あるクリスチャン夫妻が喧嘩をしました。

夫婦喧嘩は犬も食わぬ、と言いますが、段々エスカレートしていきます。

クリスチャンでないお姑さんが、見るに見かねて二人の間に割って入り、

「おまえたちは神を信じてクリスチャンだと言いながら、喧嘩をするとは何事だ!」

と一喝しました。

するとお嫁さんがキッと振り向いて、

「お母さん、私たちはクリスチャンだからこの程度で済んでいるんですよ!」

と言い返したのです。

お姑さんは唖然としました。
(・0・)

その後、二人はちゃんと悔い改め、仲直りをし、許し合い、しかしまたしばらくすると喧嘩を始める、というパターンだそうです。

証しをしたこのお嫁さんは、

「私たちはこのような罪人ですが、神様の赦しを信じ、生きております。」

とまとめられました。

その生活自体が生きた証しではないでしょうか。

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素晴らしくなったから証しができるのではなく、素晴らしくない私に働く神の素晴らしさを表すことが証しです。

そのようにして、「証しの石」を一個ずつ積み上げる毎日として参りましょう。