今日のみ言葉【No.3056】(2023年 4月14日)「72人の派遣(11)」

しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。
(ルカ10:14-15)

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知らずに行ったのと、知っていて行ったのでは、その結果に対する責任の問われ方が違います。

過剰にスピードを出して交通違反をしたとしましょう。

その場合、前者は注意義務を怠った結果としての「過失」として取り扱われ、後者は「故意」の行為と見なされます。

どちらが悪質かは明らかです。

福音の内容を知り、奇跡も見た上で、神が提示する救いを受け取らないで拒否することは、故意の行為ですから、それだけ裁きが厳しくなるということです。

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世の終わりに神の裁きの時があります。

神を知らない異邦人としてのツロとシドンの町の人々に神の公明正大な裁きが下ります。

しかし、彼らにはモーセの律法という神の明確な基準がありません。

何をもって神は彼らを裁くのでしょうか?

ツロとシドンで通用していた善悪の基準をもって神は彼らの罪を裁かれるのです。

使徒パウロはこのことをこう言っています。

「すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである」
(ローマ2:14)

憐れみ深い神は、モーセの律法を持たない民には、彼ら自身の「律法」たる自分たちの良心やその社会の取り決めを基準として裁きをなさるのです。

「彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである」
(ローマ2:15)

神を知らない異邦人は、自分たちが決めたきまりで自分たちが裁かれるのですから、世の終わりで下される神の裁きに対して文句の言いようがありません。

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では、モーセの律法という神の基準を知り、キリストの救いの福音も知り、神の奇跡のわざをも見た上で、それら全てを拒否する人の場合はどうなのでしょう?

これは「故意」の行為ですから、ツロとシドン以上の厳しい裁きが下さることは確実です。

それが

「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ」
(ルカ10:13)

とイエス様が嘆かれた町であり、イエス様の伝道の拠点となったカペナウムなどは、

「ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう」
(ルカ10:159

とまで言われています。

イエス様の言葉には、正当な裏付けがあるのです。

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イエス・キリストの福音を聞いた者には、それに対してどう応答するか、明確な責任が問われます。

自分の命と、将来の永遠の過ごし方を左右する決断を人間はどこかでしなければならないということです。

キリストの福音は信じるだけで救われ、他の何ものも要求されません。

自分が神を知らず、罪の何たるかも知らずにその中を歩んでいたことを認め、その罪の身代わりとして命を差し出され、復活したキリストが今も共にいることを信じていれば、それであなたの魂は救われています。

無条件で救いに入れられることを受け入れれば良いのです。

それは誕生日のプレゼントを受け取るようなものです。

あなたは贈られてくるプレゼントに対して代金を払うようなことはしません。

ただ、「ありがとう」と言って受け取るのみです。

この「ありがとう」が信じるということなのです。

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神の救いのプレゼントを、「ありがとう」と言って受け取る今日として参りましょう。

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