今日のみ言葉【No.482】(2013年 1月15日)

サラの一生は百二十七年であった。これがサラの生きながらえた年である。
(創世記23:1)

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聖書に出てくる女性の中で、生きながらえた年の数が記されているのはサラだけです。

それだけ注目された人と言えるでしょう。

アブラハムが信仰の父なら、サラは信仰の母となります。

しかし、彼女は信仰の母と呼べるほどの聖人君子ではなく、かなり人間的な人でした。

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子が生まれないことを憂える夫アブラハムに対して、サラはつかえめハガルとの間に子をもうけることを勧めます。

ハガルは身ごもると、女主人サラを見下げるようになります。怒りと嫉妬に燃えたサラは、ハガルを追い出しにかかります。

神の使いがサラに子供が与えられると告げた時、彼女は心の中で笑ってしまいました。

そしてそのことを御使にとがめられると、「笑っていません」と否定します。

やがてサラにイサクが生まれると、ハガルの子イシマエルとは遊ばせないようにします。

そのためにとうとう二人を追い出してしまいました。

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あなたの周りにもサラのようなクリスチャンを見かけることがあるでしょう。

特にクリスチャンホームに育った人は、

「自分の母親とサラはうり二つだ!」

と快哉を叫ぶことがあってもおかしくありません。

人間は不完全だからです。誰でも成長を目指す「発展途上人」だからです。

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サラの素晴らしさは、彼女の人格によるのではありませんでした。

アブラハムの妻として選ばれた、神の選びと恵みによるのです。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」
(エペソ2:8-9)

サラが聖書の中で唯一、年齢を記されている女性として選ばれているということは、その生きた年数が恵みの積み重ねであったということです。

私たちも同じように、神の器としてはふさわしくない者です。

しかし、その私たちをキリストの十字架によって赦し、恵みで満たそうとされる神がおられるのです。

不安や動揺、保身、我が身が一番という思い…。これらが無い人が神に選ばれるのではありません。

そのような者をあえて選び、罪を赦して用いて下さる神に目をとめることが大事なのです。

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「今は恵みの時」です。

神の恵みにいっぱいに浸る一日として参りましょう。

創世記,御言葉

Posted by maruyama