今日のみ言葉【No.374】(2012年 8月10日)

そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。
(ガラテヤ3:11)

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日本人のキリスト教に対する大きな誤解の一つに、

「クリスチャンは真面目で立派な人」

というものがあります。

私も以前はそう思っていました。

しかし、自分が洗礼を受ける段になって、

「そんなことはあり得ない」

と思いました。

なぜなら、この私がクリスチャンになるからです!!

そして、

「あなたはもう洗礼を受けたのだから…」

と、翌日から聖人君子扱いをされたのではたまったものではない、と思いました。

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真面目で立派な人になる。

これを律法で行おうとすると、相当大変です。

常に厳しく自分をチェックし、欠けや落ち度が一つもない毎日を送らなければならないからです。

律法は0か100かです。

山形新幹線で東京に向かうのに、直前の大宮まで来てもダメなのです。

それでは昼寝をして山形にとどまっている人と同じ扱いになります。

「律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもない」

とはこのことなのです。

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クリスチャンになるということは、自分が罪人であることを認め、イエス様によってその罪が許されたと信じ、新しい人生を歩む決断をすることです。

洗礼直後は生まれたばかりの赤ちゃんのようなものです。

ハイハイも歩くことも出来ず、周りの人のお世話になって生かされる存在です。

やがて真面目で立派な人になることを目指しますが、あくまで現在進行形です。

ですから、世の中の人から見れば、

「あれでもクリスチャン?」「にわかクリスチャン」「なまくらクリスチャン」

と見られるクリスチャンが大勢いてもおかしくはないのです。

これは開き直って言っているのではなく、現実のありのままの姿です。

たとえ面と向かって、

「あなたそれでもクリスチャンなの?!」

と言われても、

「だからクリスチャンにさせていただきました。今日も神様からの赦しを信じて励みます。」

と謙遜に大胆に進んでいく恵みの中で生かされているのです。

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「それでも」「なまくら」「にわか」…。人からどんな評価を受けても、神の愛は変わりません。

その愛に応答して、一歩でも前に進む生き方をして参りましょう。

前に進めない人は、視線だけでもその方向に向けましょう。

進むことも見ることもできない人は、そのままで良しとし、天国の住まいを確約していてくださるイエス様の愛にじっくりと暖まる一日を送りましょう。

やがて必ず神の器として用いられる時がやってきます。

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神の愛のぬくもりを感じる一日となりますように…。