今日のみ言葉【No.373】(2012年 8月 9日)

律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
(ガラテヤ2:16)

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日本映画史に燦然と輝くキリスト教作品「塩狩峠」(原作:三浦綾子)。

その中で、不祥事を起こした同僚の隣人となろうとし、主人公の長野政雄が彼の左遷先の職場に転勤するシーンがあります。

ある一つの御言葉を徹底的に行おうとする時、自分の罪が分かる、という伝道者の言葉を実践したのです。

やがて、愛しても愛してもそれに応えてくれず、むしろ捨て鉢になっていく同僚を愛そうとしている自分の愛とは、上から目線の愛であることに気づきます。

人のために命を捨て、犠牲になったキリストの愛と同じ愛など自分は持っていない。

「ここまでやっているのにどうして分かってくれない!」

と怒りを感じ、たった一つの御言葉さえ実行できない自分こそ罪人である、と主人公は悟ります。

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パウロが今日の聖句のように、律法の行いでは誰も神の前に正しいものとはされない、と断言できたのはなぜでしょうか?

それは彼が勉強してたどり着いた理論ではなく、実際に律法を徹底的に行って、人間の限界を身にしみて感じたからです。

頑張れば頑張るほど聖くなり、生きるのが楽になって悠々と正しいことが行える…、とはならなかったのです。

逆に、律法という規則・基準を忠実に行おうとすればするほど、それを行い得ない自分の罪が明らかにされていきました。

パウロはそれを、

「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」
(ローマ7:24)

と言っています。

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「この死のからだ」という表現は、当時のローマの残酷な処刑方法が背景にあります。

死刑囚は死人と一緒に丸太にくくりつけられ、決して離れないように縛られます。

腐っていく死人の体からの死毒で苦しみながら、助かる望みのない時間を生きなければなりません。

パウロは一生懸命、この「死のからだ」から脱け出そうとして真面目に律法を行いました。

しかし、やればやるほどこの「死のからだ」が離れず、どうしようもなかったのです。

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ところが、次節の25節で、

「わたしたちの主イエス・キリストによって、」

と、あっけなく、それこそあっさり、解答が示されています。

「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」
(ローマ8:1)

苦労して一歩一歩、山頂目指して山を登っていた人が、気がついたら山頂までの舗装道路が敷かれていたと気づいたようなものです。

しかも、

「乗せていってあげますよ」

と、車に乗せてもらい、あっという間に頂上に着き、素晴らしい風景を見ているようなものです。

今私たちはこの恵みの時代に生かされています。

キリストの罪の赦しを無料で受け取り、人生の舗装道路を歩んでいきたいものです。

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限界を感じても感じなくても、キリストに乗せていただく人生を歩んで参りましょう。