今日のみ言葉【No.329】(2012年 6月11日)
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
(ローマ3:21)
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宗教改革者のルターがまだ若い修道僧時代、彼は厳しい修行に明け暮れました。
断食をするだけでなく、時には修道院の塔の階段を、足でなく膝をついて登り、祈りつつ一段一段上がっていく、という難行苦行を課したそうです。
すべては神の審判を逃れるためでした。
当時の彼にとって、神とは
「律法で示された神の義を守れない者を裁く神」
だったのです。
ですから、一生懸命精進して、自分の悪い所を直し、それによって神の義を全うし、裁きを免れようとしていたのです。
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このような生き方を続けていると、人生は行き詰まります。
動機は良心的であり、神の意志に忠実であろうと反省を繰り返しても、やればやるほど自分の罪の自覚が生まれてくるのです。
やがてルターは、自分が気づかずに犯している罪があるのではないかと気に病み、鬱的症状を発した時期もありました。
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しかし、今日の聖句で言う「神の義」は、裁きの義ではなく、救いの義です。
旧約時代の古い義、すなわち律法では、罪の自覚が生じるのみで、人間をこれでもかこれでもかと責め続けるだけです。
この窮地に陥った人間に対して、神から新しい義が差し出されたのです。
それがイエス・キリストの十字架を信じることで得られる義です。
律法を守りきれない自分の罪を、キリストが代わりに負って下さったと信じることで、神は私たちを「義しい者」と見てくださるという福音です。
良い行いをするしないは救いには全く関係しない。ただ信じるのみで救われる「信仰義認」の発見でした。
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キリスト教では、この神の義(ただ)しさを信仰によって受け入れた瞬間から、どんな過去があろうと赦され、神の前に堂々と出られますから、もう、
「私のような人間はダメな人間です。」
と言う必要が無くなりました。
むしろ、ダメな人間だから救われ、人生の新しいスタートラインが神によって引かれ、
「さあ、ここからスタートだね」
と、昨日までの過去を引きずることなく、毎日新たな命をいただいて始めることが出来るのです。
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今日も真っ白い真新しい一日を始めて参りましょう。
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