今日のみ言葉【No.328】(2012年 6月 9日)
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
(ローマ2:4)
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私は人格的なものと非人格的なものとの違いを説明するのに、自動販売機の例話を使うことがあります。
自動販売機に100円玉を入れ、オレンジジュースのボタンを押せばオレンジジュースが「ゴトン!」と降りてきて、お茶のボタンを押せばお茶が出てきます。
決まったことをやれば必ず決まったことが返ってくるのです。
これが非人格的なものの代表です。
もし人格的自動販売機があったとすると、同じように100円玉を入れてオレンジジュースのボタンを押しても、お茶が出てくることがあります。
故障しているのではありません。
自動販売機が
「最近この人は糖分を取りすぎているから、お茶の方が良いだろう」
と判断してお茶が出るのです。
ですから、通常の自動販売機はこちらの思う通りに動きますが、人格的自動販売機は思う通りには動きません。
ある時はコーヒーが、またある時はミネラルウォーターが3本も、また待てど暮らせど何も出てこない時があるのです。
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人の世で悪が栄え、善が虐げられるのを見るのはこのような理由からです。
神は忍耐を持って罪人が悔い改めるのを待っておられるのです。
その忍耐と寛容は「富」と表現されるほど豊かなものです。
これを非人格的に理解し、理論として受け止めてしまうと、
「ここまでやっても罰を受けないが、これ以上は危ない」
と、神を自分の思い通りに利用しようとしてしまうのです。
神を非人格的に考えるとこのような生き方になってしまいます。
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神は人格的な方ですから、
「神の慈愛があなたを悔改めに導く」
のです。
この神の愛に触れ、現実の生活でその愛を体験することが神との人格的出会いとなります。
人格的出会いを体験した人は、神を自分のために利用しようとはしません。
その愛に報いていきたい、と思うようになるのです。
その時、悔い改めは強制ではなく、方向転換を自分の方から望むようになるのです。
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祈祷会の晩、私の後ろに座っていたAさんが突然立ち上がり、会堂から出て行かれました。
しばらくして戻ってこられましたが、気になった私は祈祷会が終わった後、
「何かあったのですか?」
と尋ねてみました。
するとAさんは、
「実は教会に来る前、家内とけんかをしたのです。でも、今日、メッセージを聞いているうちに、私はイエス様に赦していただいたんだと気づきました。」
「丸山さん、私は『神様に愛されている』と思うだけで、心臓が『コトコト』と高鳴るんですよ。」
「それでメッセージの最中で申し訳ないとは思ったのですが、妻に謝りたいと思って電話をかけに行ったのです。」
と語ってくれました。
会堂に最初に入ってきた時の思い詰めたような表情とは打って変わり、Aさんの穏やかな笑顔とやさしい語り口は今でも忘れることが出来ません。
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神の慈愛をたっぷりと受ける一日として参りましょう。
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