今日のみ言葉【No.1456】(2017年 1月23日) 059 「エマオ途上の二人の弟子たち」(3)
一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。
(ルカ24:30-31)
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エマオ途上の二人の弟子たちは、イエス様から直接お言葉を聞き、しかも丁寧に聖書を解説されましたが、まだ本人と会っているのだとは意識しません。
彼らの思い込みは相当強かったのです。
しかし、全く別の角度から見えた姿に、彼らは復活のキリストの姿を認識出来ました。
それは、
「一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに」
(ルカ24:30)
です。
今まで何回あったか数えきれないほどの食事の時の動作が、彼らの記憶を呼び覚ましました。
「あれ、このパンのさき方、渡してくれるやり方…。どこかで見たことがある…。」
「あれ、こんなやさしい気持ちになれたのは、今まででもあったぞ…。」
「あっ!もしかしてあの方は…。」
そして
「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった」
(ルカ24:31)
のです。
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言葉や知識で神様のことがわからなくとも、私たちが毎日々々繰り返していることを通して、ハッと気づかされることがあるのです。
毎日のディボーション、毎週守る礼拝。
それは里山の木に茂る無数の葉のようなものです。
どんなにその時のメッセージを覚えようとしていても、その時の感動はやがて色褪せ、木の葉のように枯れて落ちてしまいます。
何度やっても同じ。
無数の落葉のように枝から離れ、「身につかないなあ」と我が身の実態を見て嘆くことがあります。
しかし木から落ちたその葉が、枯れて腐り、それが何年、何十年も積み重なって土となった里山は、豊富な養分ときれいな水を生み出す土地となり、多くの生き物を支え、かつ、葉を落とした木自身も成長する場となっていくのです。
毎日の生活の中で、得ては落とし、得ては忘れていく恵みの数々…。
しかし、それはどこかで神様銀行に集められ、あなた名義の預金通帳に貯金されているのです。
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私の海外旅行時の必需品は、梅干しと塩昆布です。
外国の食生活に飽きたり、どうも体の調子がおかしいと感じた時に、梅干しを口に含むと、途端に日本にいた感覚がよみがえり、調子を取り戻すからです。
それと同じ役目を期待して、必ず礼拝メッセージが入っているCDを持っていきます。
聞いていて、「ああ、ホームだなあ」と感じるのは、礼拝の最後に弾かれるオルガンの静かな音の場面です。
目を開けると、そこはパームツリーが立ち並ぶロサンゼルスの街角、ユーカリの木が茂るオーストラリア、ムワッと暑い台北、ハングル文字がそちこちに出ているソウルの街並みであったりします。
しかし目を閉じ、礼拝説教の後の静かなオルガンの奏楽を聞いていると、自分は日本のあの礼拝堂の中の椅子に座っているのだ、という感覚になります。
そして、いつもの自分を取り戻すことができるのです。
そうなるように意識して訓練したわけではありません。
毎日、毎週の信仰生活の中で、神様は宝物を私たちの中に貯えていて下さるのです。
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日常の生活の積み重ねがあなたの信仰の力を育てます。
神様にゆだね、いつものように、聖書に親しみ、祈り、恵みの分かち合いをする生活を続けて参りましょう。
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