今日のみ言葉【No.2570】(2021年 6月24日)「キリスト教イロハ(162)『ルター(3)』」
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
(ローマ1:17)
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ある懸賞に応募したら、3万円分の無料宿泊券が当たりました。
「やったー!タダで泊まれる」
ところが、旅行会社でよくよく話を聞くと、6万円の豪華な部屋が3万円割引で、結局残り3万円は自腹で払わなければならないということでした。
その時は、家族3人、一人1万円の予算で夏の旅を感謝して過ごしましたが、こういう体験があると、
「世の中にタダのものはない。あっても必ず裏がある」
と思うようになります。
このような世的な体験が邪魔になり、キリストの救いが無代価で提供されているという福音を聞いても、
「タダはないはず。本当は頑張らなければならないのではないか」
と思うのも無理はありません。
救いを得るためには、人は犠牲を払わねばならないと考え、苦しんでいたのがルターです。
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ルターは、自分は神の怒りの対象であると考えていました。
なぜなら、神が定めた「義」を満たす存在ではないと思っていたからです。
そこで、難行苦行を自分に課すことによって神との間に正しい関係を作り、神を満足させるまでに成長し、その怒りと裁きから逃れようと必死になりました。
ところが、努力すればするほど神は遠く離れていくように感じ、苦しさのあまり彼はてんかんの発作のように倒れてしまったことさえあります。
どんなに犠牲を払って律法を守っても、義なる正しい人間には到達し得ないのです。
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「神の義は、その福音の中に啓示され」
(ローマ1:17)
という御言葉にルターは恐怖しましたが、その後に続く
「信仰による義人は生きる」
(ローマ1:17)
との御言葉に目が開かれました。
「『神の義』すなわち『神との間の正しい関係』は、人間が作り出すものではなく、神ご自身が備えておいてくださるもので、それが信仰によって罪人に与えられると考えるのが正しい」
(『改革者マルティン・ルター』、岸千年著、聖文舎、P62)
という理解に達したのです。
自分が恵みの神をとらえるのではなく、神ご自身が私をとらえようとして待っていてくださっている。
となれば、もはや難行苦行は救いに関しては無駄。
キリストの十字架によって差し出された罪のゆるしをそのまま受け取ることが信仰であり、それによって罪人は神の義を着せていただくのだということがわかったのです。
ここにおいて、怒りの神は恵みの神となりました。
ルターはヴィッテンベルクの修道院の中に与えられた個室のあった塔でこの体験をしたので、これを「塔の体験」と言います。
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人間は完全でなくても救われるのです。
恵みの神と出会う今日でありますように…。
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