今日のみ言葉【No.1879】(2018年11月12日)「 教会(4)」

そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
(マルコ3:14-15)

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教会の使命は、教えるため、宣べ伝えるため、そして第3番目は「悪霊を追い出す権威を持たせるため」です。

これは広く「癒しのため」と解釈したほうが良いでしょう。

教会は慈善事業を主目的とする集まりではありませんが、神の本質は愛なので、神がいらっしゃるところではその愛のわざが溢れ出ます。

イエス様が町々村々を巡り歩かれた時、病の者を癒やし、悪霊に苦しめられている者を解放し、貧しい者をあわれみ、悲しんでいる者と共に涙を流して慰め、空腹なものに食物を与えられたのは、神の愛の発露です。

ただし、イエス様はこう言っておられます。

「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」
(ヨハネ6:27)

驚くべきことに、これは5千人の給食の奇跡をされた翌日の言葉です。

イエス様本人が前日の素晴らしい働きを否定するような言葉ですが、それくらい警戒しなければならないことがここにあります。

キリストの弟子・教会は、「人の生活を良くする働き」だけのために全生涯を捧げてはいけないということです。

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イエス・キリストが地上に来られた目的は、十字架によって人の罪を贖うためでした。

神と人間の関係をパイプに例えるなら、その間に罪というものが詰まっているので、人は神のことが分からず、神からの愛も罪に妨害されて人に届きません。

神の愛が正当に人間に流れるためには、神と人間を隔てている罪の問題を解決しなければなりません。

ですから、キリストの十字架による罪の赦しが優先順位第一位であり、それに伴って一般的な神の愛が実現されるのです。

つまり、教会は信仰の立場からこの世に奉仕するのです。

特に、人間の経験や知恵では処理しきれない、人生を揺るがすような問題に出会う時、教会が信仰を通しての癒しをそこにもたらすなら、それは最高の奉仕と言えるでしょう。

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不登校の問題を一例に取り上げてみましょう。

教会にそのような相談が寄せられた時、私たちは学校に行けないお子さんとそのご家族全体に関わりました。

その心の痛みの癒しのために働かせていただきましたが、それは

「キリストを信じてクリスチャンになったら助けてあげよう」

という交換条件的なものではありません。

イエス・キリストの罪の赦しの福音を土台とした神の愛でもって接し、あくまでその応答は自由なのです。

その過程で、罪の赦しの福音を伝え、命は神から与えられたものであり、その命をどう使うかは人間に任されていることをお伝えしました。

不登校の生徒さんから

「私はどう生きたらいいんだろう?」

と尋ねられると、

「そうだね。あなたはどう生きたいの?」

と問いなおすことを何度も何度も繰り返し、こちらから模範解答を誘導することはしません。

あなたはどう生きるか、と問われる中、その人自身が自分と神との関係の中で、練りに練った上で出された答が本物の答えなのです。

「まだあやふやだけど、私は自分の命をこう使う」

と決断し、学校に戻った人もいれば戻らなかった人もいます。

教会は学校復帰支援団体ではありませんからそれでいいのです。

しかし、不登校という体験を通して、自分の命の尊さに目覚め、キリストを信じて罪をゆるしてもらおう、永遠の命をいただいて新しく生きてみようとする魂が一人でも多く現れ、その人に仕え、癒しの働きのために奉仕するのが教会の使命なのです。

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どなたかに神の愛をもたらす今日として参りましょう。

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