今日のみ言葉(2012年 3月30日)【No.274】
また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て
(ルカ21:2)
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この当時の人々の考え方は、神に祝福されていれば富む、というものでした。
ですから、献金をする時もこれ見よがしになされていました。
「だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」
(マタイ6:2)
「これからお金を神に捧げるぞー!」と、わざわざラッパを吹いて人々を呼び集め、自分はいかに信心厚き者であるかを示したのです。
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これとは対照的に、今日の聖句のやもめは、彼女の財布の中のわずかな金額、しかし彼女にとっての全財産を、ひっそりと捧げました。
それを見ていたイエス様から、
「あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。」
と言われたように、神に顧みられたのは貧しいやもめの方でした。
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ここから学ぶポイントは、金額の大小とか、捧げるためにいかに努力したか、ではありません。
多く捧げても構いませんし、一生懸命努力して無理矢理捧げることが必ずしも良いわけではありません。
報いを期待しないで捧げることが神の前で尊い、ということです。
しかしそれのみでは、この世では生きていけません。
労力に対する報酬を得ないで放電だけしていけば、やがて自分自身をすり減らし、人から利用され、行き詰まってしまいます。
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信仰を持って捧げているか、がポイントです。
ここで言う信仰とは、
「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」
(マタイ6:6)
という信仰です。
隠れたところで見ておられる神が私をかえりみていて下さる、という信仰が土台となり、捧げるという行為につながります。
決して「全部捧げたかどうか」という出来高や業績で判断されるものではありません。
もしそうなってしまえば、その人の「がんばり」や「努力」によって神の報いが決められることになります。
そうすると、絶えず「私は神のために頑張っているか?」「全力で生きているか?」と気を張っていなければなりません。
その生活では心に平安がありません。
イエス様は、隠れた私たちを見ていて下さり、そっと近づき、友となって下さいます。
そのイエス・キリストを信頼して生きていく方向を定めるのです。
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神は今日も私たちをかえりみていて下さいます。
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