今日のみ言葉(2012年 3月19日)【No.267】
自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
(ルカ14:27)
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イエス様の周りには3種類の人たちがいました。
イエス様に反発する人、ガヤガヤ言うだけの群衆、そしてイエス様に従う弟子たちです。
群衆は途中まではイエス様の言葉に従いますが、困難が起こると離れます。
十字架を負うとは犠牲を払うことだからです。
ですから、弟子になろうとしなければ十字架を負う必要はありません。
今日の御言葉は、イエス様の教えに従っていきたいと願う弟子向けの言葉です。
繰り返しますが、弟子になりたくない人は犠牲を払う必要はありません。
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あなたはいかなる犠牲を払ってでもキリストの弟子になりたいとお思いですか?
十字架を進んで負う人は少ないものです。
むしろ、自分の意に反して十字架を負わされた人の方が多いのです。
逆に言えば、そのような人こそキリストの弟子となる道が開かれた人なのです。
好むと好まざるとにかかわらず、人間には試練がやってきます。
その試練・困難、無理矢理に負わされた十字架をどう背負って生きていくかで、その人の人生が結ぶ実が違っていきます。
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先日の礼拝で、筋ジストロフィーの方が紹介されました。
彼が教会に来たのは25年以上前です。身体的にも精神的にも困難な状況であり、将来に対して大きな不安を持っているということでした。
その当時、私は彼にこう言ったのを覚えています。
「Sさん、恐れていることの9割は起きないと言いますよ。起きたら大変だと思うことをここに書いてみませんか。そして1年後に確かめてみましょう。」
1年後、私の場合、その理論は当てはまりました。恐れていることの9割は起きませんでした。しかし、1割は起きました。
Sさんの心配事が現実になっていたのです。
彼の場合、恐れていた9割が起きてしまいました。
その1年で、お父さんは亡くなり、彼の病状は進行し、進路は定まらず…、等々。
この世の理論はただの気休めであったと証明され、私は何と言って良いか言葉に詰まりました。
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25年たち、「神様がいるのならなぜ…」と思うような十字架を負わされた彼は、透徹した信仰へと導かれました。
自分の病と命の限りを受け入れ、誰をも恨むことなく、ただ
「イエス様の弟子として、困った人たちに元気をあげたい」
と語る人となっていたのです。
「神も仏もあるものか」と思えるような試練を通った人だけが持つ信仰です。
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負わされた十字架は、あなたが捨てさえしなければ負いきれます。
ただし、毎日、毎月、毎年、そのために払わされる犠牲があることを覚悟しなければなりません。
しかし、その先に、あなたの思いもよらない実を結んでいる人生があることを、忘れてはいけません。
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今日負うべき十字架を見極め、負わなくて良いものは捨て、負うべきものを素直に受け取って参りましょう。
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