今日のみ言葉(2012年 3月20日)【No.268】
しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである。
(ルカ15:32)
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今日の聖句は、かの芥川龍之介が「短編小説の傑作」と激賞した放蕩息子の話です。
父の財産を生前に分けてもらった弟息子は、町へ出て放蕩に身を持ち崩し、全てを失ってしまいます。
食べることにも窮した彼は、本心に立ち返り、生まれ故郷に帰り、僕の一人として雇ってもらおうとします。
しかし父は帰ってきた弟息子を喜んで歓迎し、祝宴をあげます。
放蕩に走ることもなく真面目に働いていた兄息子は、これを聞いて怒り出します。
父は「自分のものは全てあなたのものだ」と彼をなだめます。
このようなストーリーです。
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このお話のポイントは、自分が
「死んでいた」「いなくなっていた」
ことに気づいているかどうかです。
弟は全財産を失ってそれに気づき、
「もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」
(ルカ15:19)
と、息子としての資格を喪失した者として父の前に言い出ます。
しかし父は彼を息子として認めるのです。
これは神が人間に与える福音です。
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一方、兄は自分が失われた者であるとは思っていません。
彼が父との間に意識している関係は、親子の関係ではなく、雇い人と労働者という労使関係です。
「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。」
(ルカ15:29)
ですから、兄には福音をいくら説明しても分からないのです。
自分が「死んでいた」、「いなくなっていた」と気づくか気づかないかが福音理解の重要な分かれ道です。
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失われた人とは、
・神を認めない人
・祈りに失望して祈らなくなったクリスチャン
・御言葉に飽きて聖書を読まなくなった人
・形だけの信仰生活を送る人
・赦せない相手がいる人
など様々です。
これらの方々が、一足飛びに
祈り、赦し、御言葉を毎日読み、
という信仰生活を送ることは無理です。
自分なりの「神に立ち返る」方向に自分自身を向けていきましょう。
そうする私を
「喜び祝うのはあたりまえである。」
と迎えて下さる父なる神様が目の前にいらっしゃいます。
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あなたは喜んで迎えられる存在です。
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