今日のみ言葉【No.1101】(2015年 8月 6日)

わたしが北から災と大いなる破滅をこさせるからだ。
(エレミヤ4:6)

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私はクリスチャンなりたての頃、聖書通読に挑戦しました。

「エレミヤ書っていうのはずいぶん否定的内容だなあ」

というのが最初の感想でした。

試しに、祝福や恵み等の肯定的メッセージには赤線を、滅びや裁き等の否定的メッセージには青線を引いてみました。

結果は予想通り、私の聖書のエレミヤ書の部分だけ真っ青になりました。

「これじゃあ、嫌われるはずだ」

エレミヤは神の預言者ですから、神から預かった正しい言葉しか語ることができません。

しかしそれらは、当時の民にとって、また現在の私にとっても、耳ざわりの良いものではなく、

「なぜそんな否定的、不吉なことをこの平穏な時代にわざわざ聞かせるのか」

と思わしめたに違いありません。

将来確実にやって来る滅びを語らざるを得ないエレミヤは、人々の反感を買いながら、しかし心に愛をもってメッセージ(預言)をし続けました。

彼が「涙の預言者」と言われる由縁です。

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今日の聖句は、神が北方の敵国を用いてイスラエルを滅ぼす、という預言です。

「わたしが北から災と大いなる破滅をこさせるからだ。」
(エレミヤ4:6)

神は私たちを守ってくださる方ではないのでしょうか?

確かに悪しき者に災いが下されます。

「悪しき者はわざわいだ、彼は災をうける。その手のなした事が彼に報いられるからである。」
(イザヤ3:11)

イスラエルは、そしてクリスチャンも同じですが、「神の契約の民」です。

レビ記第26章や申命記第28章に記されているように、神の民の前には祝福と呪いが置かれています。

神は人が契約に従えば祝福を与え、逆らえば呪いを下す、というシンプルなものです。

歴史的に見て、イスラエルは、エジプトの奴隷から解放し荒野で導き養って下さった神を捨て、カナンの地の豊穣をもたらすという別の神の方に心を移してしまいました。

また、時代が進み、国家として発展した時代には、他国との同盟という政治的策略の方に信頼を置くようになり、神に信頼し従うという選択の優先順位は低いものとなりました。

神は何度も

「契約違反だぞ」

と神に立ち返らせるために預言者を遣わしましたが、彼らのほとんどは迫害され、殺された者も多数に上ります。

最後に送られた神の子イエス・キリストが十字架につけられたことはその典型です。

「その手のなした事が彼に報いられる」
(イザヤ3:11)

という当然のことが、いよいよ目の前に迫っています。

エレミヤがその時代、迫害や抵抗にめげずに語り続けたのは、民の目には見えない破滅から人々を救おうとする愛があったからです。

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さて、人生はそうシンプルなものではありません。

自分のせいでこうなったのだ、と自分の罪や至らなさ等、身に覚えのある人ばかりの上に災いがあるのではないからです。

まじめに生きてきたはずなのに、なぜ正しい者が災いを受けるのか、ということは、古来からヨブ記等を通して見られる当然の疑問です。

それに関する答えは、

「わからない」

が結論です。

大変不親切な結論ですが、ヨブ記を見ると、神の側ではきちんとした理由がありますが、人間側のヨブには終生その理由は知らされません。

ただ一つ言えることは、人生で試練や困難、災いに遭う時、

「主は私を守られる」

という信仰は、

「祈りが聞かれない」

という事実の前に崩壊する、ということです。

そして、神の災いと裁きを通される中で、それでも主の名を呼び続ける信仰へと成長させられる、ということです。

ですから、安心して災いと裁きと破滅の中を通って行けるのです。

通る最中は激しい苦しみを感じるものです。

しかし、そこも神の御手の中です。

「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。」
(イザヤ45:7)

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人間の思いを遥かに越えた永遠の神が、今日も私と共にいて下さることに思いを馳せる一日として参りましょう。

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