今日のみ言葉【No.2377】(2020年10月12日)「キリスト教イロハ(103)『贖罪(1)』」

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」
(マルコ10:45)

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今は牧師さんとなっている人ですが、求道者として教会に来て、十字架の話を聞いた時、腹が立ったそうです。

「こっちが頼みもしないのに十字架にかかって、恩着せがましくそれを信じろというのか!」

しかし後に彼は洗礼を受けたわけですから、どこかの時点で「助けて下さい」と神に願ったわけです。

神が、あれほど罵詈雑言を浴びせた彼を受け入れ、スムーズに救いの中に入れてくださったのは、キリストを信じた人は罪なしと認めておられるからです。

その下準備が十字架による罪の贖い(あがない)であり、贖罪(しょくざい)です。

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贖いとは、もともと、代価を払って土地や奴隷などを買い戻すことを意味していました。

旧約聖書では、神に対する罪を赦していただくために、動物をほふり、その血を祭壇に注ぎ、全焼のいけにえとして捧げたりして人間の罪の代価としました。

つまり、いけにえの命を払って罪の赦しを買い取る、という方法です。

新約聖書では、神の子キリストがそれを完成してくださいました。

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」
(マルコ10:45)

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このような論理で迫られると、どうしてもこちら側に負い目や借金があることが前提となります。

先ほどの牧師さんになった人は、ここのところが気に入らなかったのでしょう。

キリストを信じるには自分を罪人と認めなければなりません。

ところがそれは、

「神に対して借金があるぞ」

と、自分には心当たりのない借用書を見せられ、

「この借金を棒引きするにはキリストを信じることだ」

と、ふっかけられているような感じがするのです。

このあたりのモヤモヤした感覚を払拭するには、聖書が言う「罪」に関する正しい理解が必要です。

罪とその贖いに関しては1冊の本を書いてもまだ足りないほどの量があるでしょうが、次回からある程度の範囲で罪について整理していきましょう。

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罪の贖いは恐いものではありません。

神は善き方であり、愛の方だと信じ、今日の歩みを進めて参りましょう。

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