今日のみ言葉(2012年 2月10日)【No.241】
さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
(マルコ4:35)
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イスラエル聖地旅行の2日目、私は陽光輝くガリラヤ湖の遊覧船に乗っていました。
舟から降り、カペナウムの町に移動後、みるみる雲行きが怪しくなり、あっという間に雷鳴がとどろき、冷たい雨風に打たれながらの観光となりました。
湖上でのんびりと日差しを浴びていたその2時間後にこのようになるとは驚きでした。
聖書の時代も今も、ガリラヤ湖周辺は天候が激変しやすいのは本当です。
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イエス様もこのことは知っていたはずです。
しかし、あえて夕方、これから暗くなる一方なのに「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃったのです。
これに弟子たちが不安を抱いた様子は見られません。
今までに何度も夜通し漁をしたことがあるので、
「なあに、何とでもなる」
という自分たちの力量と経験に支えられた自信があったからでしょう。
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神の招きに対して、「神共にいませば何かあらん」、「大丈夫、こなしていける」とクリスチャンは思うものです。
しかし多くの場合、それは我力であることを人は知りません。
真に神を信じ、我力や自分の見通しで「やれそうだ」と判断しているのでなければ、その直後に起こる
「すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。」(37節)
という状況が起きても、
「ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。」(38節)
というイエス様と同様に、グーグー寝ていられるはずです。
しかし私たちは驚きあわてます。
神がいるならなぜこのようなことが起きるのか、といぶかります。
祈ったはずなのにどうしてこういう結果になるのか、と神様が分からなくなり、袋小路に追い込まれるのです。
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神を信頼し、ゆだねていれば安心だということは真理です。
しかし、聖書を読めば明らかなように、イエス様と共にいるから嵐に遭わない、ということではありません。
むしろ、イエス様の言う通りに進むと、出遭わなくてもよい嵐に巻き込まれ、突風に吹かれ、真っ暗な中で大波をかぶり、自分の生活という舟が沈没の危機に瀕するのです。
自分の力ではどうしようもない、というところで弟子たちは
「静まれ、黙れ」
と風と海をしかりつけるイエス様の声を聞きました。
大自然を治める創造主なる神の力と権威を持ったイエス様を初めて発見したのです。
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岸辺から離れずにいれば安全でしょうが、「安全」と「平安」は違います。
真の平安とは、嵐の中ですやすやと眠っていられる平安です。
我力でなく、この方の力を頼みとして生きることを学ぶために、「向こう岸へ渡ろう」とイエス様はあなたに語られるのです。
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真の平安に満たされる一日を送って参りましょう。
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