今日のみ言葉【No.2138】(2019年11月 7日)「キリスト教イロハ(27)『科学とキリスト教』」

2019年11月7日

もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
(詩篇19:1)

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ノーベル賞受賞者同士の対談の本『「大発見」の思考法』(文藝春秋社)の中で、益川敏英教授は山中伸弥教授に、自分は信じている人をやめさせる積極的無宗教者だと語っています。

それはこういうことです。

「僕が積極的無宗教なのは、『神』というのが、自然法則を説明する時によく出てくるからです。たとえば、『雪の結晶には一つとして同じものがない。実に不思議だ。なぜこんなものが存在するのだろう』と誰かが言った時、『神様がお作りになったのだ』と、神を引き合いに出して説明するのが、いちばん手っ取り早い」

これが科学者にとって致命的な「思考停止」を招くからだと、さすがノーベル賞の博士の誠実さと極みまで真理を追求しようとする態度は違います。

しかし現実を見ると、神を信じる科学者は世界中に多くいて、かの相対性理論を唱えたアインシュタインが熱烈な「宗教家」だったことは周知の事実です。

科学とキリスト教との関係はどうあるべきなのでしょうか。

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科学の対象は、数値や統計で表すことのできるものです。

そして、繰り返すことができるものだけを研究の対象とするということに決められています。

つまり、いつ、誰が、どこでそのことをやっても同じ結果が得られることのみを扱うということです。

たとえば、手に持っている物を放したら、それは当然落下します。

昼だろうが夜だろうが、日本だろうがアメリカだろうが南極だろうが、持っている人が男か女かにかかわらず、それは同じです。

科学はこのような「繰り返すことができる現象」を対象とします。

そして実験をし、物が落下する現象を引き起こす原則を見出そうとするのです。

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この科学の方法をキリスト教に持ち込んでも、全ての面で成果があげられるかというとそうではありません。

たとえば、祈りの法則化はできるのでしょうか?

このように祈れば必ずこうなる、あのように祈ればああいう結果に必ずなる、というような法則をつかみさえすれば、やることなすこと皆ドンピシャリで成功し、私たちの生活はどんどん豊かになっていくのではないでしょうか?

それは無理です。祈りは科学の対象とはなりえません。

なぜなら、いつ、どこで、誰が祈っても同じ結果にはならず、繰り返し同じことが起きるわけではないからです。

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科学は、愛や責任や人間の生き方等を対象とすることはありません。

それを問題とするのがキリスト教なのです。

神との関わりの中で現実問題に処し、法則化できない個々の問題を神と共に解き、歴史上1個しかない自分なりの答を出して生きるのが信仰の生涯です。

今、ここで、この私しか作り出せないアートのような人生。

それが神を信じ、神と共に歩むクリスチャンの生き方なのです。

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今日も芸術としての人生を神と共に作り上げて参りましょう。

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