今日のみ言葉【No.2004】(2019年 5月10日)「ペテロの告白(2)」

2019年5月10日

そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
(マルコ8:29)

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デンマークは消費税25%、さらに所得税等で収入の半分以上は持っていかれる国です。

さぞかし国民は不満でいっぱいだろう…、というとそうでもなく、逆に幸福度が高い国として知られています。

その理由は、大学までの教育費や全ての医療費は無料とされてあり、その他にも様々な保障があるからです。

つまり税金は高いが、具体的な形で自分たちのために使われているのだと国民が納得しているのです。

その分、選挙への意識は格段に違います。国政選挙では投票率が8割を下回ったことがないそうです。

自分たちが払う税金の使いみちを決めるのが政治家ですから、その人を選ぶ選挙で国民一人々々がボヤッとしていたり、人任せにするわけはありません。

デンマークでは国民がよく考えることを奨励し、そのような教育体制にしています。

イエス様も弟子たちに考えさせ、自分の出す答に重い責任があることを痛感させました。

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「○○さんはこう言い、△△さんはああ言った」と、人がどうこう言ったという話には責任がつきまといません。

そこでイエス様は2つ目の質問をなさいました。

「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」
(マルコ8:29)

この答えは迂闊(うかつ)にすることはできません。

なぜなら、自分が言ったその言葉に対して責任が生じるからです。

そしてここに自分の信仰の本質が現れます。

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あなたがイエス様から直接

「わたしをだれと言うか」

と問われたら、何とお答えになりますか?

何々先生がこう言ったとか、皆さんこうおっしゃってます等の答えでなく、デンマークの国民のように自分の考えで答を出すのです。

2千年前に確かにこの地上に生きたイエスという人物を、教育家とするのか、道徳家とするのか、はたまた革命家か、社会福祉の専門家か、宗教家か神か…。

この質問にどう答えるかで永遠の行き先が決まると聖書は教えています。

それゆえ、責任をもってこのイエス様の質問に答えなければならないのです。

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私の場合ですが、私が神様を信じた時、「神は私を幸せにしてくれる方」とは考えませんでした。

人生には嬉しいことも悲しいことも苦しいことも、全く無意味に無秩序に流れてくると思っていたが、それらの背後に意志と計画を持って配列しておられる存在がいる。それが神だ、と瞬間的に納得がいったのです。

それはあたかも人生というジグソーパズルがまたたく間に組み立て上げられ、何の意味も見いだせず、ただ悲しく苦しく、損して遠回りで無駄だと思っていた人生の出来事の一片々々が、意味のある絵画へと変貌していったような感覚でした。

この神がいると信じる人生では、今までと同じ痛み苦しみがあっても、全く違って受け止められ、むしろ感謝となります。

例えて言えばこうです。

ある所に行ったら、最初に尿を取られるという辱めを受け、腕にチクリと痛みを感じたと思ったら大量の血液が流れ出し、飲みたくもないものを飲まされ、上下左右に振り回された挙句、ゲップが出るのを必死で我慢しているといった有様…。

何という拷問でしょう。

もうおわかりのように、これは健康診断の尿検査、採血検査、バリウムによる胃ガン検査のことで、その意味を知る私たちはむしろ進んでこの「拷問」を受けに行きます。

世の中は今までと同じに進み、相変わらず苦労は絶えませんが、自分の内側では全く変化するのです。

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さて、聖書によって明らかにされたこの神様が、私の罪をゆるすために御子イエスを世に遣わし、十字架につけ、私の身代わりとして死なせ、それを信じる者に永遠の命を与えると約束されたという福音についてはどうでしょうか?

私は相当これに抵抗しました。

そんなことはあり得るはずはないと牧師に随分抵抗し、疑問をぶつけたことを覚えています。

しかし、神様がいらっしゃるとわかった心は、神によって徐々に柔らかくなり、

「今は全てに納得ができなくても、自分が罪人であることはわかるのだから、罪のゆるしをありがたくいただこう」

というふうに心が変化しました。

そして牧師と一緒に、今まで誰にも言ったことのなかった罪の告白と悔い改めの祈りをし、イエス・キリストを受け入れ、罪は全くゆるされたことを信仰によって受け入れました。

30分ほどの祈りの時間が終わった後、晴れ晴れとした気分になった…、というようにはなりませんでした。

さすがに精神的疲労を覚えましたが、それは

「神様に一応全部連絡しておいた」

という、部下が上司に業務内容を報告するような感じでした。

しかしそれは後になって効果を現しました。

洗礼後、悪魔は私たちの信仰を揺さぶります。

「お前は神を信じ、イエスを救い主だと言っているが、今までと同じ生活に戻っているではないか。それで救われていると言えるのか。お前は何も変わっていない」

という非難と足引っ張りの時が必ず来るのです。

しかし、

「わたしをだれと言うか」

というイエス様の質問に対して、誰かから強制されたわけでなく、自分が下した決定としての

「罪をゆるす救い主です」

という答を、あの時牧師と一緒にした経験が強固な楔(くさび)となり、

「あの時ちゃんと罪を告白したのだから、ゆるされているのは間違いない」

という心に戻り、悪魔の誘惑にとらわれないで再び進んでいくことができるのです。

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イエス様の問いは、万人に与えられている救いへ道を開くチャンスの言葉です。

自らの頭で考え、自分なりの答を出し、救い主と共にこの人生を歩んで参りましょう。

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