今日のみ言葉【No.1835】(2018年 9月13日)「 救い(7)」

神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。
(第1テサロニケ5:9)

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あるテレビの科学番組で「怒り」の実験をしました。

被験者に面倒くさい作業をしてもらっている脇で、実験者がわざと悪口を言います。

すると、少しムッときた時点で胃の動きが鈍くなり、とうとう怒らせるまでになると、胃の中の動きがほとんど止まってしまい、その後、胃の底の方に胃酸がたまり始めたのが確認できました。

「つまり、怒ると胃の動きが止まり、食べ物どころか胃酸も腸に送れなくなり、むかついたり気持ち悪くなったりするので、『腹が立つ』や『むかつく』という表現が生まれたと考えられます。」
(日本テレビ『所さんの目がテン!』2010年5月29日放送分)

人間に怒りの感情があり、それが体に影響するように、神も怒りを持ち、行動を起こします。

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神は義であり正しい方なので、人間の不義と不正に対して怒りを持ち、それを裁かれます。

不正があるのをそのままにしておいては神の義は成り立ちません。

それでは神が神ではなくなってしまいます。

ですから、神はお怒りになり、人の罪に裁きを下す御方なのです。

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しかし、怒りは神の本質ではありません。

愛こそ神の本質です。

愛は相手の全てを受け入れ、その罪を許そうとします。

ところが、それでは神の義が成り立ちません。

ここにおいて、

「いいんだよ。そのままでいいよ」

とする愛と、

「そんなことは見逃しておけん!正しさを全うさせねばならぬ!」

という義とが衝突します。

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神はこの矛盾を解決する方法を取られました。

神の「義」と「愛」が両方共成り立つ方法です。

それは神のひとり子キリストをこの世に送ったことです。

神の子が人のかたちを取り、救い主として地上に誕生しました。

神は人間の罪の刑罰の一切をキリストに負わせました。

これが十字架です。

この結果、不正はうやむやにならず、神は不正は不正として罰し、罪は罪として審判なさったのです。

と同時に、イエス・キリストが自分の罪の刑罰の身代わりとなり、十字架によって私が負う分は全て支払われたのだと信ずる者の罪を、神はゆるされました。

これによって神の愛が全うされました。

キリストの十字架は神の義と愛の表れであり、これを信じた時からその本当の意味がわかってきます。

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「ゆるせない」という思いを持っている人ほどキリストの十字架による罪の赦しを信じることをお勧めします。

憎らしいあの人も神にゆるされているからゆるせ、ということですか?

いいえ、まずはあなた自身がゆるされているということを受け入れましょう。

人をゆるしていないという状態では、怒りと憎しみと苦々しい気持ちの中にとらわれ、毎日が怒りを抑えるのに精一杯の日々です。

なぜなら、相手と同じレベル、つまり同じ土俵の上で戦っているからです。

土俵を降りるなり、離れるなりすればよいのです。

そうすれば自動的に戦いは終わります。

まずは自分の罪の処理をきちんとし、神の前でゆるされている確信を得ましょう。

自分の身をきれいにした後で、

「神ご自身が私よりもすごい怒りで怒っていてくださる。私が手を下さなくても、神様が的確で正しい裁きをしてくださる」

と思いを方向転換させることです。

聖書にこう書いてあるからです。

「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」
(ローマ12:19)

そして、あなたがその人の祝福を祈ったら、さらに心が解放されます。

「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない」
(ローマ12:14)

ゆるせないと思うその相手が神によって祝福されますように、と祈ると、その人を手放すことができます。

それはあたかも相手が宇宙の彼方にそっと動き出して行くような感覚です。

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「神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである」
(第1テサロニケ5:9)

この祝福を味わう今日として参りましょう。

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