今日のみ言葉【No.1832】(2018年 9月10日)「 救い(6)」
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
(第2コリント5:21)
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イエス・キリストという人物がこの世に生存していたことは、否定しようのない歴史的事実として確立しています。
そして彼は今から2000年前にユダヤの地エルサレムで十字架刑によって処刑されました。
これを「そんなこともあったのだ」と単なる一事件として片付けるのか、それとも、これを自分自身と関連付けて考えるかで一般人とクリスチャンが分かれます。
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キリストご自身は
「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」
(マルコ10:45)
と言い、自分の命を犠牲にして他者の罪の身代わりとなるのだと宣言されました。
しかし、ナザレのイエスと呼ばれたキリストには何の罪も見出されませんでした。
当時のユダヤの最高権力者である総督ピラト自身がこう証言しています
「わたしはこの人になんの罪もみとめない」
(ルカ23:4)
この罪なきキリストの上に、神の怒りと裁きがたたきつけられたのだと聖書は証言しています。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
(マルコ15:34)
キリストは本当に神から見捨てられたのです。
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クリスチャンとはこのキリストの死の意味を
「罪のないイエスが、罪ある私に代わって罪の刑罰を受けた。イエス・キリストは私のために死なれた」
と信じる人のことを言います。
使徒パウロはこれを次のように言い表しています。
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」
(第2コリント5:21)
「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた」
(コロサイ2:14)
私の神学校の教授であった佐藤陽二牧師はこれをこのように解説しておられます。
「それゆえに、このことを信ずるとき、我々は、過去のいっさいの罪がゆるされ、魂と心が自由にされる。神との関係が正しくされ、未来の生活と死に対する不安はとりのぞかれ、希望が与えられてくる。過去と未来の問題が解決されるから現在が喜びとなる。これが、十字架の福音である。」
(『キリスト教入門』、佐藤陽二著、アンカークロス(株)出版部、P58)
十字架の事実をどのように受け取るかがキリスト教理解、そして信仰の肝となるのです。
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十字架と自分。
その関係に思いを巡らす今日として参りましょう。
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