今日のみ言葉【No.1833】(2018年 9月11日)「 聞く耳のある者」

なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。
(マルコ4:22)

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ライブカメラというものが全国に無数に設置され、あなたのスマホ・パソコンで今すぐ、現在の状況が見られる世の中となりました。

道路の混雑状況、雪道の具合、河川の氾濫状況などを知るのに有益ですが、中には「そんなの見て何の役に立つのかなあ?」と思う渋谷スクランブル交差点を映しているカメラもあります。
http://www.sibch.tv/

お店の監視カメラや車のドライブレコーダーなどは犯罪や事故が起きた際に活用できますが、自分がいつどこで撮影されているのか全く知らない内にデータだけが蓄積されている現実に私たちは生きています。

現代日本ではプライバシーというものがどんどんなく無っているような感じがします。

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今日の聖句はあなたのプライバシーが明るみに出されるという脅しではありません。

聖書はその一句だけを取り上げて解釈すべきものではなく、まずその箇所が前後の文脈の中でどういう位置を占めているかを知らなければなりません。

つまり、どのような話の流れの中でこのことが語られているのか、ということです。

それを理解すると、正しい意味を汲み取ることができます。

「なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない」
(マルコ4:22)

という箇所は、その前の

「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか」
(マルコ4:21)

という、あかりのたとえ話の次に来ています。

あかりは「ますの下や寝台の下」に置いて隠しておくものではなく、「燭台の上」に置いてなるべく広範囲に光が届くようにします。

イエス様がたとえを使ってお話されたのは、その中に示されている神の真理を覆って分からなくするためではなく、むしろその逆に明らかにされるためです。

それが、

「隠されているもので、現れないものはなく」

という意味です。

人間には理解力の差がありますから、たとえを使ってその人の理解の程度に合わせて神の真理をつかめるようになさったのです。

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あかりのたとえ話は種まきのたとえ話に続くものとして位置しています。

さて、種まきの話だけには詳しい解き明かしが弟子たちに対してなされています。

なぜでしょう?

イエス様は種まきの話の真意を正しく知ってもらいたかったのです。

それと同じように、すべてのたとえ話の中にある神の真理をイエス様は人間に知ってもらいたいと願っておられます。

ただし、真意を知るには、

「聞く耳のある者は聞くがよい」
(マルコ4:23)

という言葉がキーワードになります。

イエス様は聞く者の自由意志を重んじてお話しされています。

ですから、人が神の御心は何かと尋ね求め、自ら進んでイエス様の言葉に耳を傾け、神の真意を知ろうと決心したとき、そのたとえ話の内容がわかるのです。

聞く者の耳次第。その人の心が神様に向いているかどうか。

それによってたとえ話の意義が明らかにされる祝福にあずかることもでき、また、ただの世間話だったという結末にもなります。

あなたが聞こうとする時、

「なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない」
(マルコ4:22)

という御言葉があなたの上に成就されるのです。

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聞こうとする態度が大切です。

神の御言葉が開ける体験をする今日となりますように…。

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