今日のみ言葉【No.1817】(2018年 8月23日)「 救い(1)」

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである
(マルコ10:45)

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「下駄を履かせる(げたをはかせる)」という言葉があります。

合格点に達していない学生の点数を水増しして進級させる時に使います。

先生側からすると、今回の処置は来年度の努力を期待しての仮進級というもので、決して不正をしているわけではありません。

キリスト教の救いとはこのような一時的なものではなく、また、見逃してもらったというあやふやな処置でもありません。

人と神との間を正しい関係に戻すという大規模なものなのです。

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キリスト教で言う救いを理解するためには人間の罪の状態を知らなければなりません。

そう言われると、私たちが過去にどんな悪いことをしたかが無理矢理あばかれるような感じがしますが、それは表面上のほんの些細なことです。

人が意識的に神に反逆したこと。

つまり、人間の自由意志で神の御心に反する方を選択していることが大もとの罪なのです。

これは原罪と言って、一般的な罪とは区別されます。

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たとえて言えば、地震で家の土台が崩れ、家全体が大きく傾いているようなものです。

家の中の茶碗も箸もテーブルから滑って落ちそうになっていますから、全てのものをいちいち支え、水平にしなければなりません。

外で「これは何もしなくても普通に立っている」と思って自分の家に持ち込むと、立つどころが倒れてしまいます。

新しく家に持ち込んだものが全て倒れそうになり、修正しなければならない状態です。

家が傾いているのですから当然です。

これが原罪を処理していない人間の状態です。

ただし、土台に手を付け、正しい状態に戻すのは相当の大作業で、払う費用も膨大になります。

神はこの神対人との関係を正しくするために、ご自分のひとり子を犠牲として支払われました。

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」
(マルコ10:45)

あなたの命を救うために、神は相当な準備をしておられるのです。

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自分の努力で自分を救おうとしても限界があります。

大きな犠牲を用意してあなたを救おうとされる神にお任せする一日として参りましょう。

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