今日のみ言葉【No.1132】(2015年 9月15日)
レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも欠けることはない
(エレミヤ35:19)
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エレミヤ書第35章には、レカブ人が登場します。
彼らは出エジプト時にイスラエルに加わったケニ人の子孫で、その後、決まった土地に定住せず、自分たちの信仰を守っていました。
特にこの章では、彼らが酒を飲まないことがクローズアップされています。
ここは酒の存在や飲酒の善し悪しを問うているのではなく、彼らの忠実さとイスラエルの不誠実さの対比が一番の注目点です。
200年以上も「酒を飲むな」という先祖の命令を守り、エレミヤからの「飲め」という要求を拒むほどのレカブ人。
それに対して、何度も語られる神の命令に従わず、一時的には戻っても、正しい生き方から逸れていってしまったイスラエル人。
イスラエルには滅びが宣告され、レカブ人には
「レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも欠けることはない」
(エレミヤ35:19)
と神の顧みが永遠に続くことが保証されています。
非常にわかりやすい個所です。
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私たちは無意識にレカブ人や預言者エレミヤの立場で聖書を読んでいます。
つまり、勧善懲悪の「善」の側。
正しくて罰を受けず、ほめられる方に自分がいるものと思い、無意識に自分を守りながら読んでいるのです。
しかし、聖書を本当に理解するためには、このような場合、あえてイスラエル側にいるとして読んでみると、神の恵みがより深く分かります。
自分たちが見下していたレカブ人の方が、誠実で素晴らしい人たちであったことが明らかにされ、それに対して自分たちは何と不誠実で愚かであったか。
神の忍耐を裏切り、幾度もあった悔い改めのチャンスを流し去り、その報いを受けなければならないぞ、と、次のような神の宣告を聞くのです。
「見よ、わたしはユダとエルサレムに住む者とに、わたしが彼らの上に宣告した災を下す。わたしが彼らに語っても聞かず、彼らを呼んでも答えなかったからである」
(エレミヤ35:17)
後悔の念しか浮かんでこない。これが旧約の限界です。
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しかし私たちはイエス・キリストが来られた新約の世界にいます。
レカブ人の側にいない、イスラエル側の罪人の私たちですが、
「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」
(コロサイ2:14)
とあるように、イエス・キリストが私の罪の身代わりとなって十字架につき、神が下されるはずの滅びを受けて下さったのだと信じる時、全く罪が赦されます。
古い自分は死んで葬られました。そして、キリストの復活によって私たちもよみがえらされ、新たな人生を生きるようにされるのです。
「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」
(コロサイ2:12)
これが旧約の限界を超えた新約の恵みです。
ここに人生の基礎を置いて生きる決心をした者には、
「わたしの前に立つ人がいつまでも欠けることはない」
(エレミヤ35:19)
という、意味ある人生が残されていくのです。
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新約の恵みをいただいて、今日一日の歩みを続けて参りましょう。
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