今日のみ言葉【No.1741】(2018年 4月27日)「 御霊に追いやられる時」

それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。
(マルコ1:12)

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バプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、イエス様は荒野に行きました。

マタイはこれを

「悪魔に試みられるためである」
(マタイ4:1)

と書いています。

神のご計画の一つだったのです。

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神の御心に従うことは常に快適なことであるとは限りません。

よく、御心の通りに行えば、高速道路を一直線で走るような人生を送れると考える人がおられます。

そういう場合もありますが、御心を選んだがゆえにかえってガタボコ道を苦労して運転し、時間がかかるということもあります。

神の御心に従ったら、ご褒美として自分が喜べる都合のよい事態が起こるというわけではないのです。

御心を選んだがゆえに、相も変わらず今までどおりの苦労が続くことなど日常茶飯事でよくあることです。

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アブラハムが甥のロトと別れる時にこのことを味わいました。

彼はあえてロトに土地を選ばせたところ、

「ロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った」
(創世記13:11)

とあります。なぜならそこは

「主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた」
(創世記13:10)

からです。

アブラハムは牧草豊かな緑の低地ではなく、今までどおりに草を求めて歩かなければならない生活を続けることとなりました。

しかし、ヨルダンの低地には、後に神によって滅ぼされる堕落した町、ソドムとゴモラがありました。

もしアブラハムが自分の利益のみを考え、自分を喜ばせるだけの選択をしていたら、彼は破滅の危機にあったのです。

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マルコによる福音書では

「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった」
(マルコ1:12)

とあります。

これは、イエス様が自分の計画で荒野に行ったのではなく、なぜか荒野に進まざるを得ない状況に追い込まれたということです。

それを聖書は「御霊がイエスを荒野に追いやった」という書き方で表しています。

神を信じる時、どうしてもそうせざるを得ない思いに駆られて物事を成す場合があります。

それはどう考えても自分の利益になるとは思えないことです。

自分としては喜べないのに、なぜかそちらに導かれる強い力を感じる時は、よく吟味しなければなりません。

もしかしたら自分は精神的病気なのかもしれませんし、他者からのマインドコントロールにかかっているのかもしれません。

しかし、ある程度祈り考えても導きを感じる時は、

「聖霊が私に命じておられるのだ」

と決断し、覚悟してこれに当たるのです。

選択して実行した結果がどうなったとしても、行ったのは自分だからその責任は自分が取る、ということです。

その先が花園ではなく荒野であっても歩き抜く覚悟を持って行く時、神の御心が明らかにされていきます。

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私はメッセージをしている最中にこの聖霊の導きを感じることがあります。

用意していないことを語れと聖霊から示されることがあるのです。

話しながらのほんの数秒間の間ですが、

「これは神の語りかけか、あるいは単なる私の思いつきか、好感度アップを狙う自己顕示欲の現れか…」

「聖霊様、これを言っても大丈夫なのでしょうか」

などと自分自身に対する吟味と聖霊との押し問答を繰り返します。

そして聖霊に負けて、観念して、「言いなさい」と言われる言葉を口に出します。

表面上は何もないように見えるでしょうが、心の中ではかなりの葛藤をした挙句、出る言葉なのです。

その結果は、わかる時もありますし、わからない時もあります。

お叱りは受けたくないのでなるべく配慮して語ったつもりでいますが、気にさわる方が出たらお詫びする他ありません。

「今日は神が先生を通して語ってくださった」と感謝される時もありますし、誰も何も言わずに過ぎ去ることもあります。

御霊に追いやられる時は、葛藤してでもいいですから、それに従うことをおすすめします。

そこに信仰の成長という神の恵みが用意されているからです。

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聖霊の導きに敏感になる今日からの歩みとして参りましょう。

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