今日のみ言葉【No.1740】(2018年 4月26日)「 放蕩息子のたとえ話(4)」

そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
(ルカ15:20)

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『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』(光文社)というタイトルで160万部を売った公認会計士の山田真哉さんは、受け取った印税が5千万円だったそうです。

最近、その全額をFX取引で失ったと明かしています。

よそ様の出来事なので「へー、そうなんだ」くらいで終わるかもしれません。

さて、もしあなたが子供から「生前贈与してくれ」と言われて分けてあげ、それが短期間のうちにスッカラカンに使い果たされ、助けてくださいと頼って来られたとしたらどうでしょう?

何か一言、言いたくなっても当然です。

放蕩息子のたとえ話に出てくる父親はどういう反応を示したでしょう?

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人生に行き詰まった弟息子は父のもとに帰る決心をします。

「豚の食べるいなご豆で腹を満たしたい」と思うほど「飢えて死のうとしている」彼でしたので、体力も思考力も低下しています。

考えることはただひとつ、お父さんに頭を下げてゆるしてもらおう、ということだけです。

風呂に入って身体をきれいにしてからとか、服を清潔なものに変えて好印象を持ってもらうようにとかの考えは一切なく、おそらく豚の臭いをプンプンさせたままの着の身着のままの格好でヨロヨロと歩いてきたでしょう。

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その息子に対して父はどういう態度を取ったでしょう?

玄関に入ってきた異様な風体の男を見てびっくりし、ようやく息子と認めた…、のではありません。

聖書には

「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ」
(ルカ15:20)

とあります。

つまり、今日帰ってくるか明日帰ってくるかと毎日彼を待っていたのです。

しかし、近づいてくるにつれて感じられるのは、鼻に来る強烈な臭いとみすぼらしい服です。

「まず風呂に入って来なさい。着替えは用意する。話はそれから聞くことにしよう」

などとは言いませんでした。

お父さんは自分の方から

「哀れに思って走り寄り」
(ルカ15:20)

汚れと臭いにまみれた弟息子そのものそっくりを受け入れ、

「その首をだいて接吻した」
(ルカ15:20)

のです。

「帰って来た!我が息子が帰って来た!」と叫ぶ父の姿が目に浮かびます。

これが罪ある人間が悔い改めて帰ってくるの待つ父なる神の姿です。

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人間は自由意志を濫用し、勝手気ままに行動します。

神はそれを許されます。

人間は資源を使い尽くし、生物を絶滅させ、神の財産を浪費してきました。

神はそれをも許されます。

しかし神は人間が神のもとに帰ってくるのを絶えず待っておられるのです。

これが聖書が明らかにする神と人間との関係です。

今あるがままの姿で神に帰ってくること。

これこそ神が望んでおられることです。 

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そのままの姿で神に立ち返る今日として参りましょう。

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