今日のみ言葉【No.1257】(2016年 3月30日)

あなたのうわさを聞く者は皆、あなたの事について手を打つ。あなたの悪を常に身に受けなかったような者が、だれひとりあるか。
(ナホム3:19)

——————

「ドラえもん」の作者で知られる藤子・F・不二雄のマンガには、登場人物に決まったパターンがあります。

●「主人公」…のび太

●「マドンナ」…しずかちゃん

●「腕っ節の強い乱暴者」…ジャイアン

●「家が裕福で乱暴者の腰巾着」…スネオ

これが藤子マンガに共通する「王道」です。

ジャイアンはのび太をいじめる役ですが、どことなく憎めません。

彼よりさらに強い「母ちゃん」に激怒され、家に連れて帰らされるシーンがあるからなのかもしれません。

-*-*-*-*-*-*-

ナホム書が啓示する神は、徹底的に悪を裁く正義の神です。

暴虐の限りを尽くして他国を侵略したアッスリヤは、やがて衰退し、悲惨な最後を遂げます。

それに対して誰も憐れみの情を浮かべないことが記されています。

「あなたのうわさを聞く者は皆、あなたの事について手を打つ。」
(ナホム3:19)

これは

「やった〜!あんな国は滅びて当然だ!拍手喝采!」

と嘲笑されている表現です。

新改訳聖書では、アッスリヤに対して「いじめ」という表現が採用されています。

「だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ。」
(ナホム3:19)

-*-*-*-*-*-*-

ヨナの時代には、ヨナの宣教によってニネベの人々は悔い改め、それを見た神は彼らを救われました。

しかし、その後の時代のナホムのメッセージを、当時のニネベの人々は拒否しました。

アッスリヤは国の最盛期を迎え、向かうところ敵無しの時代だったからかもしれません。

自分の力を頼みにし、神の力も愛の御手も目に入らなかったアッスリヤは厳格な裁きに遭ったのです。

-*-*-*-*-*-*-

歴史の背後で私たちをじっと見ておられる神は、ある時に御手を差し伸べられます。

それは自分を変えなければならない決断であるかもしれませんし、耳の痛い忠告という形で入ってくるかもしれません。

自分の仕事や人間関係がスムーズに行っている時に、そのような人が周りにいると、

「なんで私の邪魔をするのだろう」

と思ってしまいがちです。

しかし、神はいつ誰を通して語られるかわかりません。

だからといって人の言葉に神経質になる必要はありません。

大事なことは、今の自分は自分の力でそうなったのではなく、神の力でさせていただいているのだ、という意識を持っていることです。

すなわち、栄光を常に神にお返しし、自分は塵から造られた土の器に過ぎないことを肝に銘じておくことです。

この原点に繰り返し戻ること。

それが神のメッセージを聞き逃すことなく、忠実にそれに従っていける秘訣です。

-*-*-*-*-*-*-

M兄は自他共に認める内向的性格で、積極的に人と関わりを持とうとする方ではありません。

時に聖書を読むことも祈ることもできない期間が長く続きます。

「私はこれでもいいのかな…、神様?」

というのが彼の無意識に出す祈りです。

ある時、街の本屋さんで、未完の教会「サグラダ・ファミリア」の建築設計者ガウディの本を手にし、次のような現実のストーリーに触れます。

ガウディは「サグラダ・ファミリア」の建設に着手した時、無神論者でした。

家族が次々に亡くなり、医師となった兄も若くして死に、それを追うようにして母も亡くなり…、という状況を作り出した神を彼はゆるせず、カトリック教会からも神からも離れていたのです。

しかし、神が宿る場所を作る私が神を信じていなくて良いのだろうか、という疑問が彼を襲い、とうとう40日間の断食の修行を始め、それを転機としてガウディは神に立ち返るのです。

「ガウディもそうだったのか。じゃ、私もそれでいいのかな…。」

「おまかせします、神様」

一般書店の本を通して語られた神のメッセージに対して、これが彼の応答の祈りでした。

このような

「私はこれでもいいのかな…、神様?」

という祈りの持ち主のM兄は、教会で長年、忠実に奉仕をしておられます。

神様はM兄をしっかりとつかみ、導きを与え続けておられるのです。

-*-*-*-*-*-*-

神が造られた土の器である自分に戻り、原点から出発する自分として今日を歩み出して参りましょう。

-*-*-*-*-*-*-

●配信停止は下記に空メールを送信して下さい。
del@mikotoba.org

●お申し込みも同様です。
reg@mikotoba.org