今日のみ言葉【No.1256】(2016年 3月29日)
見よ、わたしはあなたに臨む。
(ナホム2:13)
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ナホム書第2章は、「赤」に象徴されるメディア・バビロンの連合軍に、「雄じし」で象徴されるアッスリヤが敗れる預言です。
堅固な城壁で囲まれ、難攻不落であったはずのニネベの都には、人々の気づかない弱点がありました。
それはニネベの中を流れるコセル川でした。
敵は水門を押さえ、それを一気に開き、都の中に大水を送り込みました。
建物は流され、人々は大混乱に陥り、それに乗じてメディア・バビロン連合軍はニネベをあっさりと攻略してしまったのです。
これはヨナの100年後、ナホムの預言の20年後に起きた歴史的事実です。
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ナホムはこの背後に神がおられると語っています。
「見よ、わたしはあなたに臨む。」
(ナホム2:13)
かつてアッスリヤはイスラエルを裁く神の器として用いられました。
「ああ、アッスリヤはわが怒りのつえ、わが憤りのむちだ。わたしは彼をつかわして不信の国を攻め、彼に命じてわが怒りの民を攻め、かすめ奪わせ、彼らをちまたの泥のように踏みにじらせる。」
(イザヤ10:5-6)
ところが、アッスリヤは自分たちが神に用いられた上での勝利だとは考えず、神を認めず、自分の力に酔いしれました。
進むところは世界制覇です。
周囲の国々を攻撃し、自分の支配下に収め、どんどん大きくなろうとし、その野望は成功します。
イザヤはそれをこのように記しています。
「しかし彼はそのようには思わず、その心もそのようには考えず、かえってその心は滅ぼすことを思い、あまたの国々を倒そうとする。」
(イザヤ10:7)
ただ神に用いられていただけのアッスリヤでしたが、その傲慢さは極みを迎えます。
ナホム書第2章では、その神の手によって裁きを受けることが預言されているのです。
どんなことの背後にも、
「見よ、わたしはあなたに臨む。」
(ナホム2:13)
と語られる神がおられることを意識し、謙遜に歩むことを神は求めておられます。
そしてその通りに生きることによって、私たちの命が救われ、人生は正しい方向に向かって行くのです。
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T姉は子供の頃から日曜学校に通ってきた信仰歴何十年のベテランクリスチャンです。
彼女にはキリスト教信仰にことごとく反対する息子さんがおられました。
「お母さんはキリスト教が一番だと思っているかもしれないが、世界にはたくさんの宗教がある。俺は俺が一番いいと思った宗教を信じるからな!」
ここが謙遜になるか傲慢になるか、運命の分かれ道です。
「何言ってる!お前はまだ世の中のことが分かってないから…」
と思わず息子の挑発に乗ってしまうのか、
「ごもっとも、ごもっとも」
と御説を拝聴するのか…。
もちろん彼女は後者の態度を選択なさいました。
やがて彼の人生にも試練が訪れ、神の導きがあり、あれほどキリスト教に嫌悪感を示していた息子さんがコロッと変わり、洗礼を受けられました。
長年祈ってきた甲斐があったというものです。
ただし、お母さんから見れば、成人したとはいえ「息子」という見方からは離れられません。
信仰的にもまだまだ「初心者クリスチャン」なのですから、導いてあげねば、という思いがつきまといます。
さて、T姉が家で探しものをしていた時のことです。
なかなか見つからず、家の中をウロウロしていると、息子さんが
「祈ってから探したのか?」
と、いっぱしのクリスチャン言葉で言ってきました。
さあ、ここが第2の謙遜か傲慢か運命の分かれ道です。
この言葉の背後に神様がおられます。
「救われたのが先か後かの違い。神の前では赦された罪人同士」
と思っているお母さんからは
「うん、ここは祈るしかないな」
と共に心を合わせる言葉が出てきたことは言うまでもありません。
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今日も神の前に謙遜を身につけ、一日を着実に歩んで参りましょう。
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