今日のみ言葉【No.1258】(2016年 4月 4日)

主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。
(ハバクク1:2)

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今日の聖句のような祈りをしている方がおられることでしょう。

二千数百年前に、神に対して堂々と

「主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。」
(ハバクク1:2)

と抗議をしている人ハバククがいたことは、その方にとって大きな慰めになるのではないでしょうか。

ハバククにとってアッスリヤという外敵が下す暴虐は耐えられないものだったのです。

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この祈りに対する神の答えは、彼を仰天させるようなものでした。

「見よ、わたしはカルデヤびとを興す。」
(ハバクク1:6)

「カルデヤびと」とは、歴史的には新バビロニア帝国のことです。

これは、悪のアッスリアを更に巨悪のバビロニアがやっつけ、結果としてイスラエルがもっと虐げられることを意味します。

たとえて言えば、ヤクザのチンピラに悩まされている人に対してヤクザの大親分がやって来て、そのチンピラを追い払い、「今度からは俺がここを仕切る!」と、以前よりももっとひどい状況になるようなものです。

なぜ正義の警察が介入しないのか?

自分たちイスラエルの罪を罰する神のムチとしてのアッスリヤが存在することは理解できても、これはあまりにもひどすぎるのではないか。

そのアッスリヤを罰するのになおもひどいバビロニア(カルデヤびと)を神はイスラエルに送り、ついにはバビロン捕囚となっていく…。

神のなさることは、多くの場合、人間には理解できません。

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ここで信仰から離れるか、とどまるかのキーワードが2つあります。

それは、「なぜ」と「いつまで」です。

ハバククの場合は「いつまで」でした。

「主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。」

これを「なぜ」に置き換えるとこうなります。

「主よ、わたしが呼んでいるのに、なぜあなたは聞きいれて下さらないのか。」

「なぜ」の祈りの場合、理解できないことに耐え、待っていられる間はなんとか保ちますが、やがて時間の経過と共に信仰の熱は冷め、冷凍状態となり、どこかで解凍されるまで心は固く閉ざされたままの時間を過ごします。

しかし「いつまで」と祈るハバククの場合、神の存在は自明であり、その神に求め続けます。

私たちに起こる問題には神の目的と定められた期間があるからです。

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ハバククの時代、イスラエルの罪に対する懲らしめと裁きという神の目的がありました。

それが十分に果たされた後に、試練の期間は終了します。

「主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。」
(エレミヤ29:10)

試練は永遠に続くのではありません。

限られた期間だけ問題は存在し、その問題を通して私たちが変えられた時、暗いトンネルから抜け出るのです。

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先の見えない暗闇のような毎日を送る時は、「なぜ」の祈りではなく、「いつまで」の祈りに転換していきたいものです。

その祈りを捧げる時、現状を拒絶するか受け入れるかの苦しい選択に迫られることでしょう。

そこはヤコブが主の使いと組打ちをした時、イエス様がゲッセマネの園で血のような汗を流して祈った時と同じ時です。

ぜひ十分にその時を味わい、あなたに与えられた選択の自由を行使なさいますように…。

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神はあなたの祈りを待っておられます。

心からの叫びを上げ、今日の課題にチャレンジする一日として参りましょう。

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