今日のみ言葉【No.1200】(2015年12月21日)

地の一部を聖なる地所として主にささげよ。
(エゼキエル45:1)

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オーストラリアの教会の青年会のキャンプに参加した時のことです。

「キャンプ場は野鳥のサンクチュアリーの中にあるからいろんな鳥が見られるよ」

と教えられました。

「サンクチュアリー?(sanctuary)」

私の頭の中の単語帳では「聖域」としか言葉が登録されていません。

「野鳥の聖域?」

行ってみて分かりました。オーストラリア自生の鳥のための自然保護区だったのです。

色とりどりの野鳥たちが木々の間を飛び回り、ようやく撮った写真は、今も私のアルバムを彩っています。

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エゼキエル書第45章では、新しい時代の神の民がどう生きるかが記されています。

「地の一部を聖なる地所として主にささげよ。」
(エゼキエル45:1)

あなたのご近所で、敷地の一部に古くから「祠(ほこら)」があるお家はありませんか?

何だか分からないけどたたりを恐れてお祭りをする、などという考えと聖書とは無関係です。

以下の「無傷の雄牛の子」「種を入れぬパン」のように、神のために純粋なものを、他と区別して取っておき、それを捧げなさい、ということです。

「正月の元日に、あなたは無傷の雄牛の子を取って聖所を清めよ。」
(エゼキエル45:18)

「正月の十四日に、あなたがたは過越の祭を祝え。七日の間、種を入れぬパンを食べよ。」
(エゼキエル45:21)

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私たちにとっては、聖書を読み、神の言葉をいただき、祈る、ディボーションの時がそれにあたるのではないでしょうか。

一日の内の一番良い時間を神に捧げると、あなたが周りの人を動かさなくても、周りの人があなたのために回ってくれます。

1週間の内の1日、安息日として神を礼拝し、その日を捧げると、不思議なことに、行かなくてもいいところには行かずに済み、神の守りとは現実にはこういうものか、と実感します。

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あなたの「聖地」とは何ですか?

それを今日も神に捧げる一日として参りましょう。

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