今日のみ言葉【No.1107】(2015年 8月17日)

主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを。
(エレミヤ10:23)

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溺れた時に手を上げて「助けて」と叫んではダメなのだそうです。

わずかでも浮いていたのが、手を上げることによって頭から下の部分が沈み、さらに「助けて!」と叫べば空気が肺から抜けてしまうので浮力がなくなるからです。

現在の新常識は「浮いて待て」です。

大の字や星の形をイメージして身体の力を抜き、空を見上げるようにすると、比重の関係で人間の体の2%の部分は浮いているのだそうです。

その2%の部分が鼻と口であれば呼吸ができます。

これで助かる可能性はアップします。

天を見上げて救助を待ち、ゆだねることが命の道であるとは不思議な神の導きです。

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今日の聖書個所であるエレミヤ書第10章の前半は、偶像礼拝の危険性を戒めています。

偶像とは「自分の願望を肯定させる神」として人間が作ったものです。

つまり、「満願成就」という言葉で代表されるように、自分の欲望が達成されることが偶像礼拝のゴールであり、真の目的となります。

ですから、望みが叶わない偶像神は「役立たず」として別のものに代えられます。

従って、偶像礼拝によって人が正しい道に導かれるかどうかは定かではありません。

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さて、第10章の後半は、バビロニア軍に包囲され、エルサレムが陥落する寸前にエレミヤが祈った言葉です。

「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを。」
(エレミヤ10:23)

これは人間が自分では何も決められないのだ、と言っているのではなく、イスラエルの民が預言者の言葉を聞き入れず、偶像礼拝、すなわち自分の欲望達成の道を結局やめられなかったことを言っています。

神はバビロン捕囚という荒療治をイスラエルに施します。

「主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう。」
(エレミヤ10:24)

神の懲らしめを受けたイスラエルは、その後、偶像礼拝とはきっぱり縁を切り、現在に至っています。

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「その歩みを自分で決めることのできない」

そういう自分なのだ…、と認めることのできる人は幸いです。

神にゆだね、神の懲らしめを受けることができるからです。

早めにその道を選択されることをおすすめします。

神の懲らしめは、怒りからではなく愛であり、命の道へと導かれるからです。

「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」
(黙示録3:19)

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人生で、「溺れた」とわかった時は、天を見上げ、神にゆだねることです。

助けが来ることを信じ、ゆだねて時を過ごすこと。

神の力は必ずそこに注がれます。

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