今日のみ言葉【No.3534】(2024年12月24日)「父と二人の息子の話(父と兄編)(3)」
そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
(ルカ15:20)
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南アフリカ共和国で、ネルソン・マンデラ氏は、アパルトヘイトに反対する活動のために27年間収監されました。
しかし、釈放されたとき、彼は「待たれていた存在」として歓迎され、その後、南アフリカの指導者として国の未来を導きました。
このような例なら十分理解でき、納得できます。
しかし、相続財産をすべて放蕩の末に使い果たした息子が帰ってきた場合はどうでしょうか。
彼は待たれていたのでしょうか。
もしかしたら、来てもらっては困る厄介者と思われていたのではないでしょうか。
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弟息子は、自分の力で自分を支えなければならないと思っていました。
そのため、父の家に戻ったら、
「もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」
(ルカ15:19)
と言おうと思って練習していました。
そして、ついに、
「そこで立って、父のところへ出かけた」
(ルカ15:20)
のです。
ところが、帰ってみると、いいえ、家に着く前に、想像を遙かに越える出来事が彼の前に現れました。
それは、
「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した」
(ルカ15:20)
という父親の行動でした。
お父さんは、毎日弟息子の帰りを待っていたのです。
それは、
「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ」
(ルカ15:20)
という箇所からわかります。
もし父親が弟息子のことをあきらめていたなら、自分の仕事に精を出し、本当に目の前に来るまで、彼のことを認めることなどなかったでしょう。
しかし、この父親は、弟息子の帰りを毎日「今か今か」と待ちわび、息子が現れるであろう遠くの道を毎日見つめていたのです。
父親には、
「今度息子が帰ってきたら、正しい生き方をするように説教してやろう」
などと意気込んでいた様子はありません。
彼は「哀れに思って」いたのです。
この箇所は、善きサマリヤ人の話で使われているのと同じ言葉です。
ルカ10章33節では、
「彼を見て気の毒に思い」(口語訳)
「見てかわいそうに思った」(新改訳)
「その人を見て憐れに思い」(新共同訳)
となっています。
放蕩三昧をして破滅に陥った息子を迎える父親の気持ちは、善きサマリア人と同じ種類の心だったのです。
これはすなわち、天の父なる神も同じ心で私たちの悔い改めを待ち望み、迎えてくださるということです。
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神の愛を確信する今日として参りましょう。
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