今日のみ言葉【No.414】(2012年10月 3日)

この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。
(ヘブル1:2)

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先日家族とブドウ狩りに行った時、最近教会に来られたばかりの人とバッタリ会いました。

同じ山形市内のスーパーでバッタリ会うのとでは確率が違い過ぎます。

なぜ遠く離れたこの場所で、観光ぶどう園は他にもあるのになぜここで、この時間に…。

「やっぱり神様はいらっしゃるなー」

と思わずにはいられない瞬間でした。

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神様は人間にいろいろな方法を通して語られ、ご自分を示されます。

真の神を知らない人間が、

「神様はいるのかもしれない。いや、いるなー!」

と素直に思えるのは、大自然の素晴らしさに触れた時です。

たとえば、山の頂上に登り、ご来光と称される日の出を見る時、その荘厳さに神の存在を直感的に悟ります。

神は自然を通して語られるのです。

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しかし、自然を通して分かるのは、たかだか「創造主なる神」の存在だけです。

今日の聖句では、

「御子によって、わたしたちに語られた」

とあります。

今の時代、神は御子イエス・キリストという人格的存在を通して語られるのです。

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人格をもった人として生きるということは、自らの意志を持ち、選択することができ、その選択に責任を持つことです。

これはエデンの園のお話を読むと、そこに暗示されていることが分かります。

最初の人アダムは神様から、

「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。」
(創世記2:16)

と言われ、どの実を食べるかは彼の自由意志に任せられました。

しかし、

「善悪を知る木からは取って食べてはならない。」
(創世記2:17)

と制限されました。

それは、

「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」

という言葉で表現されるように、自分の選択には責任が伴うことを示しています。

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神様はこのように人間を人格的存在としてお取り扱いになります。

神が御子を通して語られるという方法をお取りになっているのは、決して人間を強制的に神の意志に服従させようとするからではありません。

イエスという人となった神の言葉を聞き、人間が自分の意志で信じることを選択し、責任を持った生活を行わせようと神は意図しておられるのです。

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ですから、神を信じれば、人間が成したことがどうなってしまっても、後は野となれ山となれ。どうせ神が尻ぬぐいをして下さり、全てが良しとされる…、とはならないということが理解できます。

人間は事あるごとに、

「あなたはどうしますか?」

と神に問われながら生きるのです。

そして成り行きが人間にとって都合が悪くなっても、神様はあえてご自分から介入なさろうとはせず、人間に責任を取るチャンスを与えます。

責任を取る「義務」ではなく、責任を取る「権利」を与えられるのです。

苦悩の中で人間は神から見放され、置き去りにされているのではありません。

「あなたはどうしますか?」

と無言で語りかけられる神が共におられるのです。

その神の沈黙の中で、人はうめき苦しみ、そのうめきが祈りとなります。

そこから一歩踏み出していく行動を神様は待っておられるのです。

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聖書にあるイエス・キリストの言葉を通して神の語りかけを聞いて参りましょう。

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ヘブル,御言葉

Posted by maruyama