今日のみ言葉【No.688】(2013年11月 1日)

けれども主はなおユダにむかって発せられた激しい大いなる怒りをやめられなかった。
(列王紀下23:26)

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菊池寛の短編小説に『恩讐の彼方に』という作品があります。

殺人を犯し、敵(かたき)持ちとなった市九郎は僧となり、滅罪のために難所を通すトンネルを掘ろうとします。

何十年後か、仇討ちの相手が僧となり、人々のために尽くす姿を見つけた実之助はどう反応したのか…。

列王紀下23章はこれとは真っ向から対立する内容かも知れません。

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ヨシヤ王の宗教改革は過去に例を見ないほど徹底したものでした。

「ヨシヤのように心をつくし、精神をつくし、力をつくしてモーセのすべての律法にしたがい、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、」
(列王紀下23:25)

とある通りです。

これだけ神の御心を行い、忠実に生きたのですから、神によって祝福され、国内は繁栄を極めたのではないでしょうか?

ところがそうではないのです。

「けれども主はなおユダにむかって発せられた激しい大いなる怒りをやめられなかった。」
(列王紀下23:26)

という今日の聖句の状態でした。

この個所に続いてこうあるからです。

「これはマナセがもろもろの腹だたしい行いをもって主を怒らせたためである。」

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罪は善行によって補われるものではない、ということです。

日本語に「罪滅ぼし」という言葉があります。

過去の罪に対して代わりに善行を積み、時には金品を払って罪の償いを成立させる考え方です。

しかし、日本人が考えるような「罪滅ぼし」は聖書の世界では通用しません。

「罪の支払う報酬は死である。」
(ローマ6:23)

とあるように、罪は命でもってあがなわれなければならないからです。

ヨシヤの忠実な行為も、父マナセが犯した罪をあがなうことは出来ません。

ただ神の子イエス・キリストの十字架以外にそれを満たすものはないのです。

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榎本保郎牧師は、この個所についてこう書いておられます。

「たとい全世界の宝をもってしてもあがなうことのできないおのが罪、あらゆる善行をもってしてもその代価となしえない自分の罪も、神の子イエス・キリストの十字架によってまったくあがなわれる、この宣言を聞き、それを喜び、そこから希望を与えられていくところに私たちキリスト者の生活がある。」
(『旧約聖書一日一生』より)

罪滅ぼしの人生とは、おのが義を立てようとして生きる人生です。

そこから、イエス・キリストの義によって生きる人生へと転換していく道を神は私たちの前に用意していて下さるのです。

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神の御前にゆるされている喜びを味わう一日として参りましょう。

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