今日のみ言葉【No.617】(2013年 7月25日)

しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。
(サムエル記上30:6)

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ダビデがチクラグに帰ってくると、そこはアマレク人の襲撃にあった後でした。

「彼らはチクラグを撃ち、火をはなってこれを焼き、その中にいた女たちおよびすべての者を捕虜にし、」
(サムエル記上30:1-2)

ダビデとその従者たちは、

「ついに泣く力もなくなった」

ほどに悲しみます。

そして、悲しみの次には怒りが来ます。

「なぜこうなった?」

「○○のせいだ!」

民はダビデを石で撃とうとしました。

本来は略奪者のアマレク人に対して向けられるべき怒りですが、それができないので、別の誰かに怒りをぶつけたくなるのです。

「こうなったのも、チクラグを留守にさせたダビデのせいだ!」

「その時、ダビデはひじょうに悩んだ。」
(サムエル記上30:6)

と聖書は記しています。

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試練や窮地に陥った時、他者のせいにすることはアダムとエバ以来の人間の伝統です。

罪責感や責任の重さに耐えられない時、誰かのせいにする、すなわち責任転嫁をすると、一時的に非常に楽になるからです。

エデンの園で善悪を知る木の実を食べ、神の命令に反して罪を犯したアダムは、それを指摘されると、

「あの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」

と、エバのせいにします。

エバはエバで、

「へびがわたしをだましたのです」

と、へびのせいにします。

「私のせいでこうなったのだ」

と責任を真っ正面から受け止め、それを肩に担うことは大変な重さがあるからです。

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ダビデとて同じように言い訳も八つ当たりもしても良かったのです。

「アキシが行けと言ったから行ったんだ。みんなを守らざるを得ないから行かざるを得なかったんだ。」

等々…。

しかし彼のしたことは、

「ダビデはその神、主によって自分を力づけた。」

でした。

試練や窮地に陥った時、他人や環境のせいにするより先にやることは、

「主によって自分を力づける」

ことです。

今すぐには出来ないかもしれません。

しかし、何年かかってもこの態度を身につけようとすべきなのです。

神が共におられることを思い起こし、今まで助けてくださった事実を思い返し、紆余曲折はあろうとも神は必ず最善へと導いてくださる、と自分に言い聞かせるのです。

これが出来る人を自立した「霊的大人」と言うのです。

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主によって自分を力づける訓練の日として参りましょう。