今日のみ言葉【No.1283】(2016年 5月12日)

主の大いなる恐るべき日が来る前に
(マラキ4:5)

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日本国憲法では国民の三大義務が定められてあります。

1.保護する子女に普通教育を受けさせる義務
2.勤労の義務
3.納税の義務

なるほど、税金を納めることに世の中が厳しいのはそういうことだったのかと納得です。

日本国民である限り、納税からは逃れられないのです。

ですから国民の一人である私は、レシート・領収書の類をきちんと分類して所定の場所に保存しています。

収入・経費は規定のフォーマットに従ってパソコンに入力しています。

そうやって毎年2月〜3月の確定申告の期間に備えています。

繰り返しますが、納税からは逃れられないからです。

聖書はこれと同じことを言っています。

最後の精算の時があるから、今、その時に備えよ、ということです。

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旧約聖書の最終章、マラキ書第4章には、人類が真っ二つに分かれることが記されています。

「主の大いなる恐るべき日」
(マラキ4:5)

というフレーズで表される終末の時が来るからです。

一方の人類にとって、それは裁きの日です。

「万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。」
(マラキ4:1)

しかしもう一方の人類にとっては、それは輝かしい救いの日となります。

「しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。」
(マラキ4:2)

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命の造り主であり、私たちがこの命をどう生きたか責任を問われる方が創造主なる神です。

そして終末の時に、一切の精算がなされるのです。

そこで裁きを受けるか、救いを受けるかの違いは何でしょうか?

簡単です。それは小学生でもわかることです。

裁かれるような悪いことをしていたかいないかです。

つまり「罪」があるかないかの問題です。

全く罪がなければ、何も裁かれることはありませんから、その日は

「炉のように燃える日」

とはなりません。

たとえ生きている間に世の終わりを迎えても、安心して過ごしていくことができます。

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さて、あなたは自分の人生を振り返って、「罪なし」「無罪」と言い切れるでしょうか?

全く罪がないことが証明できれば、イエス・キリストを信じる必要はありません。

そのままで天国に行くことができます。

しかし聖書はこう証ししています。

「義人はいない、ひとりもいない。」
(ローマ3:10)

「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」
(ローマ3:23)

税務署が一つの申告漏れも許さないように、人間の罪は一つでも神の目には見逃されることはありません。

必ず罪の代償を払わなければなりません。

しかし、神の要求する基準は高く、厳しいのです。

「罪の支払う報酬は死である。」
(ローマ6:23)

つまり、罪は命でもって贖われることが要求されているのです。

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人間の命は一つしかありませんから、人の罪は死でもって償わなければなりません。

しかしそれでは人間は永遠に滅んでしまいます。

そこでイエス・キリストは全人類の身代わりとなって罪の代価を払うため、十字架につき、命を捧げられました。

キリストの十字架の死が自分の罪の身代わりであったと信じるなら、神はあなたの罪の代価はキリストによって全て支払い済みであると認めて下さり、永遠の命が与えられます。

これぞまさしく「救い」なのです。

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「主の大いなる恐るべき日」
(マラキ4:5)

は必ずやって来ます。

その日が来る前に、罪のゆるしを受け入れるという準備をなし、安心と天国の希望をもって人生の精算の時に臨まれることを願ってやみません。

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