今日のみ言葉【No.611】(2013年 7月18日)
彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない。
(サムエル記上24:6)
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ダビデたちが潜むほら穴の中に、何とサウル王一人だけが入ってきました。
サウルはダビデたちが奥にいることを知りませんし、何の武器も持っていません。
なぜなら、
「足をおおうために、その中にはいった」
からです。
これはおトイレの用事を表す婉曲的表現です(^^)。
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ダビデの家来たちはここぞとばかりにサウルを撃てと進言します。
しかしダビデは目の前にいるサウルを殺そうとはせず、
「ひそかに、サウルの上着のすそを切った。」
(サムエル記上24:4)
だけでサウルをそのまま行かせました。
そして、ほら穴を出た後に身を現し、自分はサウルに対して何の危害をも加える意志がないことを示しました。
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ダビデはなぜこんなことをしたのでしょうか?
それは自分に殺意を抱くサウルであったとしても、その人は
「主が油を注がれた者」
すなわち、神が選んだ人だからです。
有能か無能か、善人か悪人か、敵か味方か、で判断してその人に対する対応を決めるのではなく、
「この人は神が選ばれた方だから大切にする」
という態度なのです。
これは非常に大切なことであり、キリスト教信仰の上でも勘所となるところです。
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クリスチャンは
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」
(ヨハネ15:16)
の御言葉に立ち、自分が神の選びによって生かされている大切な存在であることを信じて生きています。
同じ事が他者にも言えるのです。
あの人にも神の御子イエス・キリストの血が流され、罪赦された者として歩むことが許されている…。
たとえその人に重大な欠陥があっても、周りの足を引っ張る人であっても、神が命をかけて愛しておられる人に間違いはない…。
そこを土台として生きていくことが選びの信仰を生きる生き方です。
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私が言うのも何ですが、やはりそういう意味で、牧師を尊敬しなければなりません。
もちろん尊敬に値するように牧師は努力する必要がありますし、ある程度の基準を満たす必要があります。
しかし、牧師が牧師でいられるのは、神がその牧師を選んだ、という神の選びの他に理由はありません。
ですから、牧師を神が与えてくださった人として敬い、大切にし、神の恵みにいっぱいに満たされるよう祈り、実際の必要に心を配ることが信徒にとって必要なのです。
このように書くと、牧師である私が信徒を強制的に教育、あるいは洗脳しているかのように思われるかもしれません。
しかし実際のところを見ると、神の恵みは牧師に注がれ、教会に流れていきます。
牧師が祝され、尊敬されている教会は、教会全体が祝福されています。
逆に、牧師が軽く見られてさげすまれ、「あの先生では…」と陰口がたたかれる教会がもしあったとしたら…。
その行く末は言うまでもないでしょう。
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もちろん人間である以上、探さなくても欠点は表に見えてきます。
それに目をつぶって崇拝せよということではありません。
ダビデは自分を殺そうとするサウルを「神の人」として手を出さず、後に大いに祝されました。
神の選びを自分に、そして他者に適用し、そこに忠実に生きようとする結果として、あなたは大いに神からの祝福を得るのです。
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主の選びに心をとめましょう。
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