今日のみ言葉【No.558】(2013年 4月30日)

あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい。これはあなたがたが、あだを討つ者をさけて、のがれる場所となるでしょう。
(ヨシュア記20:3)

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忠臣蔵は日本で大変人気がある時代劇です。

主君浅野内匠頭の無念を晴らすため、大石内蔵助率いる四十七士が吉良上野介邸に討ち入り、見事仇討ちを果たす物語です。

虐げられた善玉が一気に悪玉をやっつける筋書きは、まさに勧善懲悪。爽快そのものです。

ところが、日本で2個所だけ忠臣蔵を好ましく思わない土地がありました。

吉良家のあった三河吉良庄は当然のこととして、米沢もそうだったのです。

吉良上野介の長男が上杉家へ養子(後の第4代藩主上杉綱憲)として入り、親戚関係となっていたからです。

映画全盛時代の昭和30年代でも、米沢では忠臣蔵の映画は1本も上映されないほどでした。

現実は何でもスパッと割り切れるものではないようです。

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今日の聖句は、「のがれの町」の具体的制定です。

故意ではなく、誤って人の命を奪ってしまった場合でも、遺族には恨みの感情が残り、それが「血の復讐」へと進み得ることは人間である限り全世界共通です。

復讐の念に駆られた者が、裁判を経ずに容疑者を殺してしまうことのないように「のがれの町」が設けられたのです。

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では故意に殺人を犯した人にも「のがれの町」は適用されたのでしょうか?

いいえ、彼らには救いの場所はありません。

これが旧約時代の当然かつ厳正なる限界です。

しかし、驚くべきことに、新約時代では

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
(第2コリント5:17)

とあるように、どんな人もキリストを信じるだけで救われる世界となったのです。

ただしこれは法律を守らなくてもよい無法時代になったと言うことではありません。

キリストの十字架には、どんな者でも救うことができる力があるということなのです。

神の子の犠牲により、滅びに向かうしかなかった人に救いの道が与えられたのです。

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「滅びに向かうしかなかった…」という罪認識の有る無しが、神への愛と感謝が生まれるかどうかの境目となります。

神の前で自分はいかなる存在であるか、そこのところに深く目を注ぐ一日として参りたいものです。

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神の愛はどんな人をも救う愛です。