今日のみ言葉【No.3007】(2023年 2月10日)「エルサレムへの道(2)」
村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。
(ルカ9:53)
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ある高校で非常勤講師をしていた時、試験監督のお手伝いをしたことがあります。
すでに就職が決まった3年生のクラスでは、教室に入るなり、
「あ〜あ」
という、かったる〜い雰囲気が襲ってきました。
次の時間は進学コースのクラスです。
入った瞬間、ビシッと引き締まった雰囲気。
「やります!」
という決意が伝わってきて、大変気持ちの良い時間を過ごさせていただきました。
受け入れられ、歓迎されているか、それとも、拒絶され、排斥されているか。
イエス様一行がサマリヤの村へ入られた時はどちらだったでしょうか。
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ルカ9章のこの時期は、イエス様が十字架につく約6ヶ月前です。
神の使命は、放っておいたら自動的になされるはずはなく、人間の現実生活で成し遂げなければならない面があります。
うかつにエルサレムに近づくと、パリサイ人や律法学者の手にかかり、神のご計画が邪魔されるかもしれません。
そこで、イエス様はエルサレムに入るルートをサマリヤ経由としました。
ここにはユダヤ人はいないので安全です。
なぜなら、ユダヤ人とサマリヤ人との間には歴史的な敵意があったからです。
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さて、サマリヤ人にとって、エルサレムから下ってサマリヤを通るのは構いません。
しかし、サマリヤを通ってエルサレムに上るのには抵抗がありました。
目的地がエルサレムで、サマリヤは素通りするだけの土地だとすれば、
「自分たちのいる所が格下として見られているのだな」
と感じるわけです。
これは彼らのプライドと、先祖代々持っている敵対感情が許しません。
「村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった」
(ルカ9:53)
という状況にはこのような背景があったのです。
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弟子たちにしてみれば、
「自分たちは次の王様となるイエス様に付き添っている者だぞ」
という自負があります。
前回、大名行列にたとえましたが、それ流で言えば、サマリヤ人の扱いには、
「無礼者!」
と叫んで、江戸時代なら斬り捨てるところでしょう。
それと同じ事をヤコブとヨハネは行おうとしました。
「自分は正しい。あなたは間違っている」
こういう考えを持って譲らない二人が出会えば、行き着く先は戦争です。
サマリヤ人の仕打ちに弟子たちは、そしてイエス様はどのように反応されたのでしょうか?
以下、次回に続きます。
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人から歓迎されない時は、自分の信仰を見つめ直す時です。
神の正しさを求める今日として参りましょう。
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