今日のみ言葉【No.427】(2012年10月18日)
あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
(ヤコブ1:3)
——————
先日のサッカー親善試合で、日本はブラジルに0対4で完敗しました。
同じ頃行われたワールドカップ予選で、スウェーデンはドイツに0対4で負けているところから4ゴール入れ、引き分けに持ち込みました。
大リーグ地区シリーズでヤンキースは0対4で迎えた最終回、イチロー選手の起死回生のホームラン等で4点取り、延長戦にもつれ込みました。
俗に
「勝負は下駄を履くまで分らない」
と言いますが、勝負事は終わってみるまでは結果がどうなるかはわからないものです。
-*-*-*-*-*-*-
人生も同じです。
この世では試練という戦いがあり、ヤコブの手紙はその試練についてこう語っています。
「あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」
(ヤコブ1:2)
なぜ喜べるのでしょうか?
それは、試練を通して信仰が試され、忍耐が生み出されるからです。
そして、たとえ劣勢で人生が進んだとしても、最終回にキリストが現れ、彼を信じた者全てが勝利する、という結末が決まっているからです。
世の終わりにキリストが再び来られ、正しい裁きを下して下さるからこそ、私たちは試練に忍耐していくことが出来るのです。
-*-*-*-*-*-*-
それまでの間、私たちは数多くの矛盾を目にし、体験させられます。
特に信仰者が味わうのが、
「自分は一生懸命信仰してきたのに、信仰していない人と違いがないのはなぜだろう?」
あるいは、
「神を信じて誠実に生きてきたのに、私は不遇の人生を歩んできた。一方、神を信ぜず、全く自己中心のあの人の方が楽しく生き、成功しているように見える。」
という疑問です。
神を信じ、聖書の御言葉に立って生きていこうとする人にとって、これは最大の試練です。
この試練を通して、「やがての時がある」と信じる方向に導かれていきます。
ヤコブの手紙で言う忍耐とは、この「やがて」があるのだ、という信仰です。
やがて清算の時がある。
やがてキリストに出会い、人生どう生きたかが裁かれ、キリストを信じて罪赦された者が祝福の天国に迎え入れられる。
この信仰が養われていくのです。
-*-*-*-*-*-*-
強烈な信仰の持ち主であった内村鑑三には、ルツ子という娘がいました。
ところが彼女は原因不明の難病に倒れ、わずか19才で天に召されました。
治療中、父親の内村鑑三はその信仰のありったけを振り絞って神に祈り、癒しを信じましたが、その祈りはかなえられませんでした。
絶望とはこういう時に使う言葉でしょう。
祈っても何の変化もない…。
神を信じていてもいなくても状況は同じ…。
最愛の娘を失う体験を通して、内村は復活信仰・再臨信仰へと導かれます。
告別式では、
「ルツ子の葬式ではなく、結婚式です」
と述べ、天国でキリストと結ばれているのだという信仰を表しました。
そして、雑司ヶ谷の墓地に埋葬される時、彼は一握りの土をつかみ、その手を高く上げ、甲高い声で「ルツ子さん万歳」と大声で叫んだと言います。
内村鑑三にとって、「やがての時」が現実化し、彼の今の苦しみを支えるものとなっていったのです。
-*-*-*-*-*-*-
「やがての時」があることを思い描き、確信とさせていただきましょう。
そこに忍耐が生まれます。
-*-*-*-*-*-*-
●み言葉メールを申し込みたい方や配信停止を希望される方へ。
以下のアドレス宛に空メールを送信して下さい。
・申し込み reg@mikotoba.org
・配信停止 del@mikotoba.org
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません