今日のみ言葉【No.426】(2012年10月17日)
金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。
(ヘブル13:5)
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神様が決して私たちを離れず、捨てない方であることが分かる一番の方法があります。
誤解される可能性があることを承知で言いますが、それは、献金することです。
いきなりお金の話で、結局キリスト教も金目当てか、とは思わないでいただきたいところです。
なぜこのようにはっきり言うかというと、聖書にはっきり書いてあるからです。
「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」
(マラキ3:10)
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このマラキ書3章10節は聖書の中でも例外中の例外の御言葉です。
なぜなら、
「これをもってわたしを試み」
と、神を試みてみよ、と勧めているからです。
本来、神様を試みてはいけません。それは荒野でサタンを追い払ったイエス様もおっしゃる通りです。
イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
(マタイ4:7)
なのに、神ご自身が「献金をして神を試せ」と言うのですから、これは相当自信があることです。
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但しこれを投資かギャンブルのように捉えてはなりません。
千円捧げるより1万円献金した方が効果がある…、と考えるのは全くの的外れです。
献金は神への感謝の表れであり、神の恵みに対する具体的な応答です。
自分のためになるように捧げるのではなく、感謝の応答なのです。
心の内から外部へ、その思いを具体的な形にする一つの方法が献金なのです。
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献金の恵みは、捧げた人だけが分かります。
あるクリスチャンの主婦は、お給料をいただくと、きちんとその10分の1を献金として分けていました。
月初めの礼拝で捧げることになっているのですが、彼女はどうしても不安がとれません。
そこで、
「神様、1か月何もなかったら月末に間違いなくこれをお捧げいたします。」
と祈り、タンスの奥深く、このお金を隠しておきました。
彼女の考えは、何か急な出費があっても、あのタンスの献金の封筒の中から出せる。神様も緊急事態なら許して下さるだろう…、というものでした。
すると案の定、子どもがケガをした、急な冠婚葬祭費がかかる…、という具合に、その後数ヶ月間、タンスの献金を間引きして使う生活が続きました。
「やっぱり取ってて良かったんだ。」
と彼女は自分の知恵に満足していました。
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ところがある日、
「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」
と約束される神様なのに、なぜ私は最初に捧げないのか、と示されました。
そこで彼女は、本当に震える手で、月初めにあの献金を捧げました。
「もうタンスに予備費はない。何か起きても対処できない。神様助けて下さい!」
という気持ちでした。
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さて、その後どうだったでしょう?
献金したのだから、毎日何事もない平穏な日々を送ることが出来たのでしょうか?
いえいえ、やはり緊急事態は起きました。子どもがケガをした、急な冠婚葬祭費がかかる…。
ところが、ご主人が急に出張してその手当が出たり、臨時収入もあったのです。
月末に清算すると、見事にプラスマイナスゼロ。まかなわれていました。
神様の守りとは、このように捧げた人だけが分かるのです。
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このことは、お金を払って神様をボディガード役として雇う、ということではありません。
神はいつも私たちに恵みを与えて下さっています。
その恵みを意識し、感謝を形として表すことによって、人と神との関係が愛の関係となることを神様はお望みなのです。
恵みは捧げることによって更にはっきりと意識されます。
その恵みの世界の内を歩んでいることを神は私たちに知らせようとなさっているのです。
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献金は神の守りへの条件ではありません。神の守りがあることへの感謝の表れです。
勇気を持って捧げ、私たちから離れないでいて下さる神の臨在を味わって参りましょう。
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