今日のみ言葉(2011年10月20日)【No.173】
「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」
(ピリピ3:13-14)
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あなたは「目標設定」とか「ゴール設定」という言葉が好きですか?
実は私は嫌いです。大事だということは頭でわかります。しかし目標を持ちたくはありません。
なぜなら、目標を作ってしまうと常にその目標が気になり、縛られるような気がするからです。
それ以上に、目標設定をして今まで十分失望してきたからです。目標をクリアできなかった敗北感で打ちのめされた過去を再び味わうのはまっぴらごめん、という気持ちがあるのです。
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しかしやはり今日の聖句は、「目標を目ざして走り」と語ります。
パウロは既に自分はイエス・キリストに捕らえられているのだ、と言っています。それにもかかわらず、彼は目標を設定し、「神の賞与を得ようと努めている」と言うのです。
パウロはイエス・キリストにあって救われ、神に完全に受け入れられているので、律法の基準を満たして救いと安心を得ようとする世界からは解放されました。
目標を達成できたら自分はOKで生きていて良いが、できなかったら生きる資格無しのダメ人間だ、と思う必要はなくなったのです。
救われた後に何もせずとも天国に迎え入れられ、そのことで誰も私を批判しない…。
福音の世界では、全員、既にゴールに到達し、完走したことになっているのです。
肩書き優先、実績は後から、の世界です。
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それはたとえて言うと、小学校1年生の社長の息子が、次期社長として社長と同等の扱いを受けるようなものです。
何の知識も力もなく、不十分な結果を出し続けますが、決してクビになることはありません。
やがて自分なりの目標を設定し、実力がついてきます。
その結果として、会社を大企業に育て上げるか、零細企業のままかは問題ではありません。
この恵みを理解し、恵みに十分浸った人は、目標を目ざして走り出さざるを得ないエネルギーに満たされます。
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恵みの中で神の可能性にチャレンジできる一日でありますように…。
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